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そのもの同士で繋がる

―――また勝手に脳は繋げるから静かに始まる(笑)―――

「ソレを言おうと思って言う」ということは、”私”が主となっているから。

どれだけ他を思ったとしても、”私”が言うこと。無意識に、何かに反応した形でなく極力それらを排除した状態で出されたものが結果的に、「他」というものに近くなるという逆転の現象は―――

”私”のフィルターを通すという事は、なしにはできないから。ならば極力、”私”の意識を使わない、働かないように行えばよいというシンプルな話になる。意識は”私”、無意識は”私”以外と接している。


(無意識は)情報(=記憶)がある限り、完全に”私”でないとは言えない。ただ「今」という時点において意識されていない事(状態)とは言える。それが”私”からズラしたもの(外れているもの)なので、「”私”以外」と逆にきちんと合ってしまう、という理屈になると思う。

私でありながら”私”を遠ざけ、他と同じ所にありながら完全な他でもない…、「他」という存在にはこの私も含まれている状態。それが今ままでも、最近も書いている「出力(書く時)は無意識だから読むこと(入力)で確認…」などという、「”他”と同じ場所にあった私、他者扱いできる(無意識になっている)私」として含まれるということ。

だから自分自身に対しても、他(外)を見るシンクロは起きるし、”コト”から遡りそこにある残された記録「無意識」との一致を観ることができる。そしてつまり”無意識の投影(投射)”という事で「シンクロは投影だ」に繋がるだろう…。

・・・

補足は必要ないと思うのだけど、書き足すとすれば、「ソレを言おうと思って言う」という”書く”という時に自然と働いている、「何かにフォーカスした状態がある」という、表面部分を流れるものはある時にはある。強く自覚もあり、その内容から流れていく(外れていく)事もないような状態のこと。

それは通常の事だし、そこでは自覚というはっきりとした”私”から内容を持って書くことがなされている。

それとは別に、書きながら意識が外れていく事もあるし、まったく端から焦点を絞らずにツラツラしていく時があるし。どの様な形でも”文字”がここに書かれる状態で違うのは、「何か」特定の事に触れているのか、焦点が絞れないモノを語っているのか、という違いがある。


私はずっと、「解釈は読み取り側」と言っているので、その文字の中で、どこに焦点を当てるかというのは読む側の目であって、焦点のない言葉の並びは通常で言う「解釈は人それぞれ」の数段上を行く受け取りがなされるだろうと思っている。だからこちらも”分からない”。

出力されたものと、入力するものとの互いが互いに”無意識部分”を多く使うような状態があるということ。リアルとのシンクロは少ないものだけど、情報として読み取るこの世界においては、意識を弱めた無意識状態によって繋がりやすいシンクロは起こりやすいと思う。

書く側の”私”として言えば。

”私”として書けば書くほど、私にとっては他という「外」がハッキリとできる(区別される)わけなので、シンクロに対する”驚き”は大きくなるはず。”私”に意識を絞っている分そうなる。

逆にツラツラと~という意識の甘い、絞り切れない頭の状態では、「分からないけど…何となく…そうだろう…」ということが確約もなく掴めている事が少なくない。


そんなこんなを経て、しっかり焦点が絞られている出力であっても、”私”の意識が、通常で把握するその内容以外にともに自然と出されて(映されて)いて、そのものは”無意識”なので、何を考えることなくいつも通りに「書け」ば、それが一番”合っている”という意識状態になる。

それが、”私”の行いをいつも通りにしている「意識せずに無意識を動かしている」状態なのだと思う。

いや。

無意識はいつも自然にあるのだけど。その大きな力と不思議さに魅了され、意識した途端に効力を失うので、働きを活かすには”意識しない”という接し方が必要になる、まったく「逆の」存在になっていると私は思っている。

”逆”なのはどちらか知らないけども。無意識側からすれば、「人の行いはいつもまったく逆なんだよな」という事なのかもしれない(笑)


夕寝で「すでに考えたことが整理されていた」とポストしたのは、”夢”その中で、その”思考”を見ている状態「”意識がある”とその中では感じる」状態で、夢として流れるその内容が、覚醒時に私が「そう考えたもの」として自覚の”覚え”があるもの、と感じていたから。

夢は映像ばかりとは限らず、私は結構文字が流れるのを見てきたし、これは”思考そのもの”を感じている状態だったので、”流れているのを見てた”と書いた。(そうか…、内部対話状態に近い感覚だ)

思考(したこと)として流れていると感じている。
”覚えがある”からそれに対し「やっぱり」「そうだな」という感触、納得を得ていた―――。

それだけはっきりと、「その中」で意識されていた。

起きたて、”それがあった事”はしっかり持ち帰ってきたけども、内容のまったく出てこなさに笑えた( *´艸`)

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☆うみのみか☆
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