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自分の中に置かれた他者

「書くこと」その内容のために、どうしてもその流れから書かないと始まらないので、またツラツラと流して行きます。内容は昨日の冒頭部分の展開です。

何という特定のことでなく、もうこれは今までの、本当に色んな事が淡くザっと流れたものからそう感じるのだけど、改めて。

どんどん”時”が詰まってしまったんだと。
それだから「速い」という忙しなさを感じやすい状態にあるとも言える。

その中になされる事はどんどん省かれて、言葉という世界の中に閉じこもる形になった…、そう感じた。”言葉の世界”などは実在するものじゃないのだけど、人の頭はそんな「”ない”世界」に入ることが出来る。そこで理解されれば(できれば)”分かって”しまうから、「留まる」状態の中におかれる。

「人は他者のために」

本当にその通りだと、昨日の記事を書いていて痛感したこと。それは私がそうしようとして「他者のために」など強く思ってやっている状態じゃない。”その事”の流れ、経緯を頭の中から引き出してその状況に言葉を付けていっただけのもの。行っているコトの言語化。

それを私自身が「見た」時に、そこには他者が確実に意識され、自分の中にその人(他者)の為などと思ったわけでもなく、行いを観た時の「自分の中に他者が置かれている」ことを見た。”その時言葉はそれが付く”というものだった。

私の中の感想は以前から同じで、やった事の結果に「それ」がある、というもの。それをとても強く感じたのが今回だったので少し踏み込んでみた。

「やる」事が先にある。それはどこかで学んだから「そうすると分かってやる」も含まる。どちらにしても「やる」という動作が先にある。それ以前にあるアレコレはどの様でも構わなくて、とにかく思う思わないも関係なくやるという動作が確実にあったという事だけは事実。

そしてそこからホニャホニャことを進めるなかでの、全ての経験が自分への材料になっているので、そうした事の”結果”というショートカットだけでは、この経緯諸々が身に付かない。こちらの向きが動きの「基本」と思え、今現在の私たちの在り方から観れば「逆だ」という風に書いた。


基本大原則としたのは、この向きを行うことは知りながら「言語・頭から入る」ということは必要で、タイパなどと軽く言われるようなレベルでなく人の成長の結果だと思うのだけども、やはり”それだけ”になる事による弊害「結果」は確実にあって、頭から考えることのすべてを否定するものでは当然ない。

ただこのサイクルだけだと、同じ流れ(向き)から見ているだけだと、逆側から流して初めて見える”その事”は陰となり、逆向きだから光って見えてくるものが拾えない、というイメージを持つ。恐らくそうだろうと思う…。

今まで、何かを読んでその事が呑み込めなかったとき、保留という形を取った。分からないものは分からないままに呑み込んだりもした。関心がそのまま消えて行くものも多くあったと思うけども、ぶら下げた状態のものは必ず、後にそれが落ちてくる。


あの時見えなかった事、分からなかった事が、逆向きから見た(考えた)らそこが浮いて見えたような気がした。これは私のイメージそのものだけども、「逆」は、こちらが主の基本における姿勢であって、私達の現在の姿が本当は「逆になってしまっている」ということのように感じた。

人の進歩によって、解っているものをそこから始めることは当然で、一々すべての事を”主”で行う必要などない事は当然のこと。ただ詰まった時には、本来に戻ってそうしてみるという立ち返りができるかという事なのだろうと思った。

そのかなり遠ざけてしまった時間もかかるその事をこなして来るから、現在の頭の使い方に大いに活きてくるのであって、結果だけを追うこの短い中ではプロセスが生まれない。基本は「やる」こと。


そして、やるという事は、頭では想像もつかない想定外の諸々だらけの為に、ただそれをやる・やっているだけでなく、”アタマ”で括る事になる―――考えるということ、やりながら考えざるを得ないということ。私たちが普段先に持ってきている事の多い”アタマ”を、その実践・実行や判断などの精査という”終わり”に使うということ。

そしてこの事は、本当は自然となされている事であるのだけども、「そうだ」ということを言葉で表すことで、”結果・結論”は見えることになり、理解できる結果を先に、その事をすればよいという”考え方”だけが取り込まれるようになる。

説明したのは行われている事、目にしたのは言葉。人の頭は全体から全てを拾うのでなく重要な効率の良い所を拾う。「そういう事」の理解が呑まれる瞬間になる。


その事を、行い自体は時にきちんと「そうされている事」をわざわざ言うために、”逆”という今までの否定から入らなければいけないこと。人の学びの多少はあれど、学ぶ時にはその様に動作が先にあるはず。そしてそれを振り返りその事を見、次の機会へ活かす―――というサイクルは当然の循環。

この事のくり返しはありつつも、言葉の世界(表現)を多く目にする事になり、欲しい、解りたい”結果”はどんどん身近になった、そして経緯はどんどん見えなくなる。これがどのくらいかの期間が続けば、世界は十分に変わってしまっている。私達の頭の中、意識はリアルもアタマの中も区別できない。

言葉にする事によって解釈は生まれるため、言葉を初め(主)とするように変わってしまった…言葉は「結果」だと私は思っている。

グルンとひっくり返り、多くは言葉の世界へ入った状態から、少し戻すようなイメージ…、それはAIなんかがやっぱりサポートになるのだろうね。

・・・

”言葉が初め”という表現をする時、人のいわゆる「顕在部分」をスタートとして見ている為、”初め”という表現になる。

言葉は終わり・最後とする時、モノコトを旅してきたその後にまとめることが出来るそこに付く表現として終わりのものとなる。露わにするには言葉を使うしかない。

また言葉は最後というものはもう一つよく使うことがあって、それは頭の中の奥の方で、静かに画(映像)を見る時、そこに初めから言葉なんていうものはないから。最近も表現した通り。

”見たもの”が何かあって、そこに自分の中に感じる(た)事として、言葉が付いてくるその「最後」という意味。使う場面で言葉の意味はコロコロと変わっていってしまう。

変えずに”分かるように”それを優先して書くとすれば、それは非常に進みの悪いつっかえつっかえの、頭の中を都度切り替えたりしながら読むことになる流れとなる。


何かを書くという動作一つとっても、やる人が優先している、そこに意識されている事が元になって表に現れるヒョーゲン。

流れが優先か、意味が優先か、そんな事も全体からは受け取ることが出来ると思っている。

(ウチソトの話は●含めてまた明日に少し触れます)

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☆うみのみか☆
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