ミになるまでの時間
脳が、何にも邪魔されずに動き、それに付いていく”私”がある―――、
この時、思考されないシンプルな状態のため、”私”による余計なジャッジ(良し悪し判定)がない。(だから必要に応じて後に確認するなど、この状態ではジャッジのない危うさもある事を知っていなければならないけども)
脳が素直に動けるという内側の話を書きながら、”受け容れる”という、外から入れる内容と結ばれるのは、後に”私”がそれを見る時、色んな括りの内側と同じく、色んな括りの外側というものが、その括り、次元というか空間というか、それを破って(貫いて)結ばれているからと思う。
頭の中でこの”私”は見ているようで、その頭の中で過去に「外」で見たそれを見ている。外にあった事をこの内側で”見る”という機能は外せず、いくつも、何度も、空間がまたがれる。
受け容れる―――
確かに起きてくることを、この自分の中に消化させていくそれはある。
頭の中の処理でなく、実際にこなす消化は、後でミになる。消化してミになるまでに時間もかかる事。スピードの速い頭の中では、”実”にはならない。その時間が必要ないから速い。
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メモからだけども、この吐き出し(出力)が一度あったから、更に消化されたものが上がってくる(昨日)。意識がそちらに行ってしまうのだけど、一先ず上記の展開を少し。
モノゴトを何かこなしている時、それは殆どは「その事を行う」という作業の中に入ってしまうために、無意識にそれはやる事、単なる作業という様な位置づけになっている事が多いと思う。普段の日々の小さな物事に、いちいち「これは今○○をしている」などの意識を向けない状態が普通と思う。
そしてその何か、”作業”とされる部分は、この”私”からしたら全てがおもしろい、楽しい、心地良いというものばかりではない、いきなり「降ってくる」ものだってある。”私”だもの、天に文句を言いたい時だってある。
それでも勝てないでしょう
どうしても絶対に無理なことって、あるじゃない…
色んな想いを抱えてただその中を行くという、その事をとにかく消化していくというその状態を、後の”私”は、受け容れるという事だと、その表現と重なって見えたものだから。
受け容れるというのは、選り好みできる事だけでなく、呑み込むしかない事も時にあったりして、それが「諦め(明らか)」によってとにかくこなす事で、後に自分のミになる。
前もって何か分かっている事を受容する事だけでなく、突然の事もいつもは見えてこない事も同じく受容の形をとる…、消化している最中はそんな事はまったく感じ取れないけども、”結果”の方から見て、その表現がつく。
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やはり意識が既に移ってしまっているので、それと合わせて書いて行きます。
昨日の朝から、もうその状態にしか見えてこなかった。
消化(こなす)という、モノゴトの説明に使っていたこの言葉が、人のカラダの消化と、完全に重なり出して見えてきた。言葉の世界での”説明”、その空間でものを言っていた所から、身体の動きにも意識が向けられる様なこと(体験)が増えてきて、その事同士が私の中で”同じ状態”として認識され、押し出されてきた。
散々使ってきた、消化やこなすという言葉(同じ意味)。事をこなすという表現から、実際の動きの事へ自然と意識が移り、その身体内でのことがやんわりとイメージされた時、消化されてミになるまでには時間が必要なこと、”食べたもの”を消化するから、栄養は摂取されてこの身についていく。
この辺りの言葉を使って書いていると、もう表現の世界にいるのか、身体の流れの中にいるのかが、曖昧になってくる。あまりにイメージが重なってしまうものだから。
自分に何かを入力して、即、身につくことはない。実にする為に色んな事をこなしていく。その結果に自分の中に取り込まれるものがあったり、またその残りとして出されるものがあったり…その中でももう一度昇華できるものがあったりと、できるだけあちこちで実になる様にしていく。
よく、”ペンディング”などという表現を使ってきたけども。”長旅が始まる”などとも書いてきたけども。
それは今、「そりゃそうだ」という風に肚にズルっと落ちて行く。
実になるまでの時の経過、途中のゴニョゴニョした、まだ何かよく分からない噛み砕き…。そりゃすぐになんて身につくわけがなかった…と、振り返って思う。
それぞれには、知識・情報として、自分の頭の中に軽くでも入っていた事。それでもやはり、同じようなボリューム?にならないとその事が結びついて”同じ”に見えることはなかった。
人の頭の中には、膨大な材料が入っている。
ただ、外側の体験にはどうしても長い時間も必要なこともあるため、誰もがそうする必要があるとは私は思ってなくて、人の得手不得手があることは時折触れている。
だから、自分と違うタイプの存在が必要(大切)だと訴えている。
自分が全ての体験をこなすことはできないので、他者のそれが、自分にとって貴重な情報になることは間違いない。自分を活かすために他者が力になっている。そしてその、自分と他者のそれぞれの個性のままでいる事が、「多様」で良かったはずだし、新しい考え方に偏らせることでも何でもない。
新しくしていく事だけが進化ではないし、それでも必要ならば根から含めてゴッソリもあるかもしれない、という考え・受容への理解が進むことを、人の成長、進化というのだろうと思う。