自分の中の頼れる存在
座った姿勢が厳しくて横になってスマホで打っていたのだけど、私にはどうしても書き上げられなくて、途中まででやっとだった。
横になっている姿勢のそれよりも誤魔化せなかったのは、確実に「頭」。この頭が横になっているような状態だと、私はまったく集中した状態になれなかった。
その書いている内容の中へ入っていく=その内容のイメージが、全くできる状態にならず、そういう意味の”集中”ができずに書き切れなかったという事実があった。
身体の状態も大切と思うけども、頭の傾きも無視できない、と感想を持った。
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私は心身ともに健康な方だと自分では思っていて、腰に関しても「過去に何かあったかもしれないなぁ…この感じ」という遠い記憶はあっても、”またやった”とすぐに出てくる記憶はない。
ワン達が多頭になったまだ飼い始めのころは、膝や腰が痛かったりワンの咄嗟な動きに反応ができすに散歩中にリードが手から離れてしまったりなど、身体もできていなかったことは憶えている。
今が特段何か出来るようになったという自覚はまったくないけども、”こなせている”という事は自覚ができていて、少しは対応できる身体になったとは思っている。
主人は以前よく、腰が痛いと口にすることがあって、ぎっくり腰も確か経験したことがあるのだけども。
今私が自分の状態を少し話し、長時間座っていられないことを話すと、「オレはこうしてたよ…」とすぐに教えてくれた。初めは”同じ状態と限らないから…”と話を聞いていただけだったのだけども、実は自分がこうなって、この辺りの痛みを持つ動作をしている知っている人の中で、該当すると感じた人のうち一人は主人だった。
私が事後に調べた事は主人には言わない状態で、主人の話を聞いていると、あながち間違いではないと感じて訊いた、「それは何かで知ったもの?調べた?体験から?」。
「自分で」と言った。
こういう風にしていると楽だった、そしてそうやっているうちに、気にならなくなった(治まった)という。
主人は起床後のストレッチは私なんかよりとても念入りに行い、寝る前もいくらか身体に意識を向けた対応をしている。身体は仕事柄しっかり動かしている状態だけども、事前の準備体操は昔から意識が高い。それは本当に感心している。
身体のことをどうすれば良いかという事は、詳細にどうこう語れないかもしれないけれど、人は自分の身体のことに関心を持っていれば、いくらかどうすれば良いのかという事は掴めるのではないかと思っている。
私も主人も、ど素人だ。
この腰痛の始まった頃に少し触れたいと思ったことは、「意志(意識)を持って何か自分が動き出す前に、すでに○○○に基づいて動くようになっている」ということ。
はっきりとは説明ができない完全に”感覚”で、後ろの方で感じた薄い状態だったから、余計にここまで流され続けてきた…他に意識が引っ張られる状態が強くあり、集中できなかったという事でもあるけども。
で、これは、改めて”直接”にこうして触れて書かなくても、すでにもう流れとしては書いてきている状態で(私はそう思っていて)、書こうとすれば”逃げる”類いのものという事も分かるから、宙ぶらりんになったりするのだけども。
○○○は、”ナニカ”という表現が精一杯に近い。そこは、直接の表現ができなくて、だけどそこにあるのは確かだ、という感覚の上で唯一掴めるもので。言葉で表される具体的なモノ・動きではない、ということ。
それを何か不思議な言い回しによって、そして様々な表現によってこちら側で説明がされてきたという長い間の流れがあるのだろうけども、ここで現代で特に顕著になっている「それを言葉通りに解釈する傾向」は邪魔をすることになる。
それはそのものを言い表した”表現”であるのだけど、それが実在かのような存在に格上げされてしまうという事。解釈上では”あって”良いのだけど、実物として掴めないもの。はっきりとこちら側に持ってきて意識されてしまう事が色んな支障になってしまう。
それが表れると同時に”裏側”の側面も露わになるわけで、”そんなものはない”という極端の発生、排除が出る…、だから言葉を使った表現は難しくなってしまうし、その繊細で詳細なものを知っている人ほど、それに関して表現をしない、”できない”と表現する。
ここまで私は「改めて触れて」いるのだけども、ちっともソレに触れられない。こちらというこのはっきりとした世界からでは、奥側の方の遠い感覚の存在のことを、具体的になど現すことがやはり難しいから。
ただ、前振りしたのだから、世にある言葉を借りてその事に一応触れておくと、私が感じたのは、「意識以前に、自分を支配・仕切っているものがあると思う(感じる)」という事、それだけ。
自分のこの選択は自分の意思で行われているものか否か、のそれに関する内容のこと。
現時点で確定・断定などは相変わらずできない事だけれども、脳の機能的な働きを観察していると、「”私”がそうしようと詳細をどうこう考える前に、具体的な諸々を詰める前に(知る前に)、その行いを十分に誘導されているじゃないか」という感覚を持ったから。
それは今回こうして一度露わにした事でまた、ここへの情報が集まり出すことを活かして、確かめて行く。
思考側からのアプローチを嫌うその性質を汲んで、起きることその流れをこなしていく事で観えてくるものを拾う。このアプローチからでないと出現しない存在というものが人の中にはあるということ。
決して不思議で、怖い存在でもない。共にあることでタッグを組める自分の中の頼もしい存在である。