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世界は尺度の違い

出力する「表現」には、この”自分”が現れている事というのは、数日前にも他の形で触れている。その時は、”使う言葉に(現れる)”という様な内容だったと思うのだけど。

その関連で今回も少し連ねていく。

表現する時、必ずこの自分の内側に何かが湧いているから、そこから言葉などを使って表に現わしているわけで、例えば言葉をきれいにとても上手く選んでいたとしても「それ自体が」表し方として映されている事になる。

その”出力”は、無意識で行っているので、だからこのケースでは完全に他者の方が「よく見える」ことになる。その事が分かれば、自分自身のことも自ら”他者”のように観ることができるので、なかなか気づけない自分の内側を少しずつ把握することはできる。


そしてこれを書く時、必ずセットにしたいのが、その内側に在るもの=自分を観るというだけであって、それがある事を否定するものではないということ。

いつもそう。

分からない「自身」のことを少しでも把握するための手段であって、それが在ることが悪いわけではないという事。使い方・場所が変わればそれは活かせる事でもあり、間違えた場面では自分にとってマイナスでもあり…、全てはモノの見方と使い方だと思っている。

そして、昨日の「誘導」という所を広げて書いて行くと、これが「自分を変えずに他者を変えようとすること」と重なる部分で、広い意味での「自分の快適」へと、他を引き込もうとする行いであるということ。

その主に「個」にかかる”快適”へと他者を導くから、「?」という内側の何かを感じさせてしまうわけで、それが「誰かのために、世の中の多くの人々のために」という事と、ごく自然に重なっていれば、何の問題もなく誘導でなく、他者は「自らの選択」から動くという事になる。


この辺りのことは、既に人々に周知されているからこそ、「他者の為に」という言葉だけが先行しているのだと思う。結果的にはそこに辿り着くのだけど、「自分の内側」というものが整理された状態にないと、それは自然と外に現れてしまう―――その事に他者は違和感を感じるという所になる。(自分が満たされた状態にないとムリが大きくなる)

考え方と行い自体に問題があるのでなく、それでも他者にとって、その内側で感じられてしまうものが、「うん」と言わない、そんな状態がある。

基本的には、「自分の中のこと」になるわけだから。あまりに内側のもののままに出力されると、結局それは他者に取り合ってもらえない…、外という世界(社会)は、個人的な思いだけではやっぱり動かないものだからーー。

何か、ちょっとした一つの事があると、よく思う。頭の中が繋がるからだ。

結局、世の中に「言われている事」って、”合ってる”事が多いって。最終的にその”言葉”に繋がっていくから。(これは私の実行の”順序”から書いている)

じゃあ、何が「違う」のかと言えば、一言なら「人の解釈」という事だと思う。それは、言葉を使って現わされたことを先に”頭で”理解するために、確かに理解しているのだけども、「そこから」始めようとするスタートになる事で世界線がまったく変わってしまうから…分かったその内側の中だけでは、やはり分からない「見えていない事」の方が多い。


そしてもう一段書くと、どちらからでもセットになれば良いのだろうけども、多くは、頭が理解できたことで、”分かっている事”と思ってしまうために、余計にそのリアルは”分からないもの”のままに存在しているし、その事でどんどんとリアルとの差が大きくなってしまう―――、だから行いのあるなしでは、まったく別の世界を見、生きている事になる。

同じように、行いからその言葉になる「言われている事」はまた別でも感じていた。

(メモ)
この、”ここ”という場所で「消化している」状態を、”受け容れる”というのだろうと思っている。

これは今までも何度か感じた感覚で、決して言葉で言われる感覚で「受容していく」なんてものでなく、いや確かに説明はそうなるのだけど、それがやはり言葉であって、その状況その状態にある時、そんな事はまったく思わないもの。

後で見ることのできるズレた時に、それ以前に知っていたその言葉との重なりをそこに見る…「あぁ、受け容れる、という事(状態)だ」と。

そしてそう一致した時に付随していたのが、体験で得たあの時の状態には、やりたい・やりたくないなどの思いが一切なかったものだから、この状態に入ると、軽いゾーンのようになり思考が止まっているようにも思えた。

通常「やりたくない事はやらない、やりたい事に力(時間)を注ぐ」という様に書くけども、その次元にさえない。脳が、何にも邪魔されずに動き、それに付いていく”私”がある―――、とつづく。

体験、経験の方が、どうしても時間がかかるのは、”いつもの時間”との尺度が異なるから。頭の中の速い時間の進みと、外界での遅い時間の進み方とがある。

尺が違うという事そのものが、「世界の違い」を表しているように思う。

(”受け容れる”については、明日少し展開します)

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☆うみのみか☆
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