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中々見抜けない”自分”

もの凄い分かりやすい状況・状態の中にいたと実感した。

”こんなにどんどん日に日に良くなるもんなんだ…”と、自分でも驚いていたくらいで、また眠った後のその感触は明らかなことが多くて、本当にすごい、としか言いようがなかった。

暑さの疲れなども含んでいる事は理解しながらも、眠さが強い状態の中にもあり、内面のチグハグな状態も抱えながらの、本当に身体全てがよく頑張ってくれている状態だと”私”が認識していた。

”気づけばできている”

座る準備(クッション・腰当てなど)をして椅子に座っていた数日があったのに、月曜の晩はなぜか何も思わずにそのまま着席し、夜ご飯を食べていた―――それを大分食べ進めてから気づいた。

⦅あぁ…、こうやっていつの間に”気にしなくなっている”状態がやってきている。こうして散々身体に向けられていた意識はいつの間にか、「無意識」で行われる存在になって行くんだ⦆

そう思った。

風呂場での動作もかなり一々考えて動作していた動きが、いつの間にか「これも痛くないんだ…」と、動きが先にとられていると思ったことも印象的だった。これは、その前に「気づかぬうちに普通に座っている」ことをやっていた事の流れから観れるものだった。

これは大丈夫か、ダメか。そんな事を気にして自分へ前振りしなくても自然とこなしている状態が現れる状態があり、また”まだダメかな”とどこかで自分が思っているそういう動作に関しては、きちんと恐る恐る探るように動かしている所も掴んだ。

なるほど…

「身体、”機能”が先にある」と、この流れの中にいた”私”はそう解釈するし表現する。すでにやっているという動作へ移っているものは、無意識へ戻されたソレという事に間違いないのだから。

そして、これは…?と、どこかそう思っているものは、確かにこの自分の”意識”が引っかかっていて、ここに関しては結果は幾つかに分かれる状態がある事は軽く掴めている。


「恐る恐る」自体が、”私”の思い込み由来のものもあるだろうし、実際に”やっぱり痛い”と紐づく状態を掴むこともありその恐れは正しくもある。という事は、「完全に過ぎた結果」だけは、間違いなく意識側から無意識へ明け渡された、こちらで抱えなくても大丈夫な状態がある事を教えてくれていると思った。

「意識」

・受け取っている状態
・掴まされる状態
・こちらでの認識に上げられ(戻され)、こちらでの把握のために一時握らされ、後に再び無意識へ戻る(戻される)…

今の状態からそんな事をイメージした。

・・・ ・・・ ・・・

そして昨日のこと。

朝のストレッチで、肩入れができる事に喜びを得た。腰痛以来捻ることが制限されて、片側はいつまでも出来なかった。それでも”どんな感じか”は日々試していた。

それが「あ、できるかも…」今までよりも数段動かせる実感と、後ろ側が大分見れるまでに捻りが出来るようになっていた。こんな事もやっぱり嬉しかった。


そしてこの日の主な気づきはここから。

「できる」という事の自分への効果効能の非常に大きいことと、また「できない」事での自分へのかなりのストレスを与える状態があるという事との両方を拾った。このストレスは無自覚で全く実感として掴めず、そこから解放された時に、堰を切ったように飛び出して行く―――、そう思った。

これは、これを感じられる「状態」があって、今回の私の腰痛の例になるけども、”痛み”でほぼ占められているようなガチガチの状態では、そもそも自分自身が「動こう」という気が起きない状態にあり、ただ静かに回復へ向けて力をそこに集中するような状態があるのだけども。


その時というのは、集中している事が”回復へ向けて”なので、どちらかというと内側へ気を使っている状態、静かな流れに沿ってただそれを活かして目的(快方)への遂行がある。その中で”できる”ことできちんと喜びは得ているから「良い」のだと思っていた。

それがやはりどこかの時点でスイッチ、転換が行われる”所”があって、自分では全く「そうしよう」などとは思っていないのに、動作が変わってくる。スタンスが勝手に切り替わっている。

「動けるようになってきた」「スピードも戻ってきた」などの、痛みで占められていた意識が少しずつ自分の行動の範囲・スピードが戻りつつあるのを無意識に把握されていることで、”通常”の動作を、早さを、実行しようとしだす。


「その状態がある」という事は、自分がわざわざ意識(認識)に上げなくても、その動きが自分の内側で把握されて、状態の変更、モードの切替えがごく自然に行われていると感じた。

静かにある時はそうある事が最優先でストレスの実感などないのだけども、動けるようになると、今度はいつまでもその静かな状態・緩慢を続けている事にストレスを感じた、この日私はチマチマ動いている自分の何かにイラついたのを拾っていたから。

”何にイラついてんだ?”そう思った時、少し動けるようになった事で、「動く」モードになっていること、痛みで静かにしていたのは、回復のためであって、それをしたい訳ではなかったことを、動けるようになったこの場からは感じた。


自分が開放された時、縛りが解けた時に、人はやっぱり動きたいのだと思った。この身体の流れを観た時に、心理的な動きのそれと重ねて観ていた。

何かのきっかけがあって、理由は様々なことから自分にかかる縛り。その中にあることは当たり前じゃない。だけど「自分の思うようにこれだけ自由に動いているから―――」と、この”自分”は本気で思っている。

それ自体が拘束の中の自分だという事に、ここから解放された時に後付けて新しい自分に気づいてもらえるのだと、そこから出ないことには本当に分からないのだと痛感したものだった。

・・・

腰はまだ痛い所も残っているし動きは完璧ではないけども、前述の通り、痛みの占める割合が変わると、それはごく小さなものへと姿を変える。

そして、やはりリズム。

普段の自分のテンポで、ペースで事が行えることはストレスが少なく、自分がとても喜ぶ。自分のペースは、握るとなしに持っているものだから、捨てることはできない。

ただ状況に応じてそれを変速で切り替える努力はできるだろうと、各々のリズムを持ったこの世界に対して、一応静かな頭で終える(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!