どんどん流れていった
―――そうだな
「アタマの中」と散々書いてきたそれは、「言葉の世界」だったと、重ねることが出来るんだな。
”言葉で説明されるソレとは違う、やってみないと分からない…”
というのは、本当に「やった」ことで得られるものの実感の事であるのだけど。
同時に、その言葉で表されていたもの、その世界を、自分の中に広げていた、つまり解釈(理解)があったという事だ。だから”分かった”時にパーンと割れる(壊れる)その事による、明るさや衝撃があるんだ。
未体験の、言葉の世界に留まっていたそれが壊れる時。
・・・
私の中の感覚にあった矢印、向きの話。
一時、散々しているのだけど、最近また「前から」という意識(づけ)、フォーカスがされた状態なので、チラホラ向きのこととして頭に浮かんでくる。
”私”から見る「→」という向きでなく、モノゴトから”私”が受ける「←」という、外から内の向きで意識してこなす事を書いているのだけど。これは確かに今でもそう思う事で、記憶で対処できない新規事の時は特に、そのモノコトをとにかくこなし、後で頭で整理される(する)、というものの話だったのだけど。
入浴中にぼんやり考えていて、ちょっと長い一回りを回想していて浮かんだのは―――
「色んな気を取り込む」、という事なんだ、ということ。外の”気”を吸い込む事。消化していく、こなすという事は、そういう事だよな、と。
そして、そうして自分の中に取り込むという事が、「既存のもの(内側)を壊そうとしなくても、壊れる、ゆるむ」という事になるのだと思えた。私は初めて、”そちらから”見ることができた。
それは自分の中に、「自分の中の固執をゆるめる・壊すには、内から壊さないと…」ということを前提にしていたという事が、そこから拾えたことだった。疑うでもなく、だけど少なくともペンディングになっているものだった。
今は詳細に説明ができないけども、感覚的には、意識の向き(その場)を変えれば、直ぐではなくてもそこから見た捉え方が肚に落ちてくる、と思った。自分の身を置いている場、そしてその向きから見る「反対」側が、呑み込まれてこないもの、となる。
・・・
5日のメモからだけども、なぜここで「向き」の話に焦点が来るかというと、過去から現在へと繋がってきたから「今こうだ」という視点を長いこと持ってきた為、確実にそう捉えて今まで物事に対処・言動してきた為に、向きのことが私の中から押し出されてきた。
→→→と考えてきた事は、完全に自覚がある状態で、私の前提自体が「→」を足元に置いて行って来ている事が、「反対側”←”」から日を射した事によって、割れた。私の中の矢印の向きを替えただけ。
そしてこれは、特に何かを強力に徹底したというほどでなく、年末にポロっと使った言葉によって、自身が意識する羽目となった(笑)という流れ。これは、いつもの様に変わりなく、強く訴えるつもりなくポストしたことで、自分へ”暗示”がかかった状態。それを完全に「意識」が捕えてしまった。
その私の中の”感覚”を感じたから、数日の行いにおいては「意識のクセ付け」という形で、私自身をそこから離れないように少し重ね続けた状態はある。忘れないように強めに意識されたのは3~4日くらい。四六時中そんな事など思っていない…それでも「替わる」。
その事を体験したので、「外側から内(中)は壊せる」という考えに至った。
ただ、意識の状態を掴んで行っている事なので、ただ言葉を使ったことでそれが全て容易にそうなるという事は、相変わらず否定はしたい。自分というものが、言葉の世界にいる状態では、それはコマンドとはならないだろうと思う。過去の自分の状態で、同じことをしても「無理」という事を思う。意識の状態を感じない言葉だけでは自分を導けない。
(以下はメモ)
こんなんでは、言葉で理解されてしまうソレが広まる(なされる)事は、「窮屈な事」でしかない、そう思った。”解釈”している状態とは、まったく違うから。
気持ち自体は特にワクワクするわけでもウキウキもしない。とにかく重い(感情)、内部言語が生まれる前に動いてしまう状態になっている。
―――そうか、「ひとり言」が消えるという事だ。そのひとり言が、こんなに負担をかけていることを知った。「気持ち」も後だ。
やる事、やれる事。
「動く」というのは、元は努力でない事が分かる。上乗せの筋力、持久力などの肉体・身体的加算はあるにせよ、根本は脳、意識(の置かれ方)からくるもの。ここがそもそも重ければ、その後上乗せしていくものは、負荷の役割より重荷に近い。
内部言語、「自分の中の結び(つき)」は、”私”という存在の、”在り方”そのもの。
明るい、軽い。
「動けることは軽さを感じる」、そういう”実感”と、アタマは処理してくれた。
そしてこの体験(感動)をしてずっと、内側の様子を観てた…、何だろう?掴めていない、言葉にできていないものがあるから。
ワン散歩中、暖かさもあり、少し汗ばむスピードでしっかり歩いた。ずーーっとその事を感じながら。
(ハートと言われる場所の重さがある)
いや、ハートなんて重さは変わってなくて、大体いつも同じと思うけど笑?と、小さな声があったかは知らないが、大股でサクサク歩ける軽い動きがあるからこそ、強く感じたハートの重さ。
(あぁ、”重い”じゃない。「安定」してるんだ。その事を”重さ”と言ったんだ)
ハートがそこにどっしりとある、安定感を掴んだ。
だから、こころ(感情)がワクワクとかウキウキという軽さは一切掴めず(感じず)、ただとにかく”動ける”と思ったんだ。
(その後、目線は自ずと切り替わり、ここ最近の2~3日間の表現が遠くに見え始める…)