色々な感じ方
”確かなものは意外な所にある”
現実というその場に起きることを、あまりにも普通に、そこにあることを見せると―――
まるでウソみたい、作り話?という印象を持つことも少なくない。
それって・・・
それだけ現実という世界を、人は殆ど見てなんかいないという事だし、現実の方がよほど、不思議な、説明の難しい世界であるという事を言っている。
私たち人は、脳内の世界に埋もれている。この目の前のリアルの世界を、”作られたもの”のように思ってしまうほど、人はリアルを知らないところに居る。
・・・
上記は、12日のメモなんだけど。この時は前日(時間的に”これ以前”の意味)に使った言葉のことがあって、”その事”から観ている事をメモしていたのだけど。
主人と二人で墓掃除へ出かけたのは14日、帰宅して「そうだよねぇ」とポストに投函されて感じたことを含めて書いたのはその日。note予約投稿絡みの連なりで翌朝15日のFacebookで、「現実(リアル)に起きたこと、殆どそこで生きていない事」の趣旨で触れているのだけど。
こうして書き連ねると、多分外から見れば、「私がただずっとそう思った意識が継続している」という様に当たり前に感じ、”そんな事”すら気にしない「当たり前だろう」という状態があると思うのだけど。気にすら引っかからないならソレが正にその状態であると言えるのだけど。
そんなものを私がなぜ書くかと言うと、①「”私”は、これを一連だったという事を、後から知っている」から。今日(書いているのは15日)書く前に何がそのまま残っているかと、ノート(メモ帳)を開いて少し読むと冒頭のそれがあり、その事から観れる「世界」がずっと続いていた、という風にまずは思ったから。
後で読み返して、②「無意識にそういう事は連なっている」ということ自体は今までにも何度も書いている事なのだけど、その事を何度も書き、理解している状態でさえ、実際に「そういう事」をリアルにみる時、それを目の前にした時には”ハッ”とする明らかがある。文字通り「明るく」なる時。
不思議という言葉の印象は薄れ、”慣れ”というものになる事は否めないけども、だけど都度「明るさ」は観ることができる―――、それはコトの事象自体は別ごとだから。だけど、”理解”される事は同じなので、ひどく驚くことや不思議といった印象は薄くなる。自分の反応その感覚が慣れてしまう。だけど、都度明るさは感じている。
理解しているだけで、その事の詳細を言葉で説明できるわけじゃなく、だけどそうなる、そういう事になる、ということ自体は「当たり前」という重ね重ねの体験・経験がある。だからまた、意識が外と直接つながってない状態から、外の事象と繋がる時に、それまでの体験から”結んで”考える(捉える)ことが普通になる。
このくり返し「習慣」によって普通、当たり前、という状態が自分の中に出来あがるのだと思う。
途中、書いていて気になった表現を少し広げる。
②「無意識にそういう事は連なっている」、と自然に書いたけども、これが明らかにこちら側、「自覚する意識側の”私”」というものから考え、見ている状態(表現)で、少し”私”を外してソレから見れば”連なっている”などという表現は使わない。
”連なり”という連続の感覚を持つのは”私”の記憶により並べられたもので、この”私”が見たもの、無意識世界の一部を記憶したもの・自覚したものという事。”私”の外にあるものに並びなどはなく、そこにあるもの(その状態)という”全体”(のまま)。
”私”が意識した時、フォーカスした・呼び出した時に連ねられた線という様に解釈する。”私”がいる限り連続して外し続ける事ができないので、表現する時には必ず、”読めるような表現”を用いるため、”私”側にする事により現す内容がまるで”反対”を意味しているかのような状態になる複雑さが、意識/無意識にはある。
無意識部分の話を書くのに”意識”側を用い、こちらから見た”見え方”で表現するほかない為、”意識”の話を表現しているかのような逆転が起きてしまう、という様なもの。
もう少し言うと、意識・無意識という別のものでなく、そこ・それ等の世界から一部を抽出したものを”見る”、掬い上げた一部を”私”は認識していて、何かにフォーカスしている(してある)ことで自覚する意識が立ち上がり、その「表現」を行っている状態を表すことにより、”分かれて”存在したもののように人が認識している。
①「”私”は、これを一連だったという事を、後から知っている」は、自然に行う私達の動作は、いちいち全てを意識して行っているわけでなく、無意識で行っている事が殆どで、「後で」記録として残っているものを目にして、無意識に行ったその事を意識という自覚に上げている。
この、「後で」という事とのタイミングのズレの少ない状態が”シンクロ”で(あると言える)、それはリアルの世界と紐づくと体験と脳内(情報?)とが一遍に繋がる様な、大きな衝撃(驚き)を持つように感じる。
すべてはそれぞれにバラバラにある、というものを、私という存在の中でピタッと合う(出会う)その瞬間をみると、人は大きく動揺する驚きを持つ。
実際に本当の一致というものは、人には出来ないのだろうけど、そのまったくズレ過ぎたそれらの距離を近づけることは定期的に起こる―――、それによって、”力”というものがムダにあちこちへ飛ばずに、スッと出やすくなる状態が生まれるだろうと、話を広げ書きっ放しにした所で今日は終わりにします(笑)