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”私”の中身をみた

普段の頭の時に考え出ることはまともなので、違う感想を持つけども。例えば後にこの事を見た(読んだ)時、「これは○○な状態だから”そう言った”んだよねぇ…」と、自身に対して訂正が入ってしまう。

訂正した見方、”まとも”もまたある場面では必要なものだけど、私は「その時」に拾えるものが「とても大切なもの」という在り方があるようで…。

とても放っておくことはできないのです。

・・・ ・・・ ・・・

lineメモから)

あ~、そうか…。おもしろい、納得でしかない。

「そうだ、久しぶりにカレーにしようっと」買い物を翌日に控え、たまたま目にしたカレーの画像を見てメニューを決めた。

この2か月、私はカレーを作っていない。キーマカレーはカレーの位置づけじゃないらしい…。味が違うし、好きだけど一度食べたきり小分けで冷凍にし、そんなに食べたいとも思わずにやっと残り一個のところまで来ていた。

そ・こ・へ

久々カレーの登場。そしてそこからまた私の世界へ…

初めの頃の、「自分の食べたいものを食べる」も、あっという間にペースダウンし(満たされた)、食べていないと思いつくものを適当に回していた。肉は週に2~3回は食べるようにし、あとは魚に集中した週にしてみたり。

カレーを思った時に分かった、「”私”のメニューの中にない」という事が。

カレーは私の中の「”主人の”情報」という整理・括りになっていて、今は彼のフォルダーが開かない…開く必要がないから、カレーは私も食べるものだけど、”主人に関わるもの”という所で、私のメニューとして上がってきていなかった。


恐らく途中で自然に強調された(顕著になった)と思われる。初めの頃はカレーも頭に浮かんでいて、食べたくないという自分の意思による理由で食べなかったもの。

それがいつしか食べないという動作から情報が薄れるように※、主人に合わせたメニューにしなくて良いことにより、視界から遠ざかり「忘れる」。私の中に「主人の幅を利かせていたフォルダー」が、一時的にでも休み、閉じた状態となった。

私の中の「私の割合」を見たように思った。

※その動きがないから余計に頭に浮かばない状態だったと思われる。「刺激が少なくなる」ということの実感はあったけども、これがよくいう自覚される、気分的な落ち込みや喪失感、「なくなってしまった」という感覚と繋がるのかな、と思った。

(そして翌日の買い物を終えてのメモ)

買い物が終わり、少し整理する。

「これといって食べたいと思うものが(あまり)ない」

飽きることも多く、長くは同じものを食べないので間隔を空けながら同じもの、”イメージして入るもの”を食べたいものとして物を買う。食べ物を決める時はいつもこの傾向で殆どきている。

主人と買い物をしていた時、または一緒に生活していた時の食生活・習慣と、何がこんなに違うんだろう~と、何度か考えた。

初めの頃は、「張り合い」という表現をしたけども、それも一時的なものだったように私は思っている。違う、もっと違うものが奥にあって・・・。


「”私”の中は、好きなものばかりで占めているわけじゃない」という事を観た。私という存在の構成、何でできているか、という様なイメージ。

好きなものが多く占めている事は良いと思う、幸せな状態とひとつには言えると思うのだけど、私のこの時の考えでは、人は自分の中に好きなものだけでなくもしかしたら、殆どを私”以外”の要素で作っているんじゃないか、ということ。

”私”という、当然に使っているこの自分自身の中身は、フタを開けてみれば全然、私ばかりじゃなかった、という事を連日「食べ物」の事から感じとっていた。

その諸々を含めたのが「私」という表現もあるが…。

食べ物のことから気づくメモからも、”私”というものは作れる(作られる)ものであり、だからその逆に「壊せるもの」であるという事。だがしかし。衝撃は決して弱いものではない―――。

・・・ ・・・ ・・・

「違う感想を持つ」

というのは正に、今という時点において、頭の働いている場所が異なるからで、同じ人の、この頭の中で起きている事を、同じ人この”私”が受取って感じ思い、考え。

考えているなんて、考える意識なく考えてしまった内容を脳内で受け取ってしまっているので、それが通常「普通の頭」というものになってしまう。いつも様々な場面で書く通り、「それが必要な状況」はある。

「ほか」というその事を知らないと、脳に浮かんでいるものが全てと思ってしまうのも当然で、それ以外のものが何か異常に、異様に見えたり感じたりと普通の頭ではそう判断してしまう。それも反応としてどうしても仕方ないと私は思う。

そこからズレた所に行かない限り、分からないものは本当に分からず、これだけ詳細に”その事”を書けたとしても、”その時”に接して初めて本当に「こういう事だったのか」という衝撃に出会う。”実感”と普段に使う表現は、もしかしたらまだ脳内を回っている状態なのかもしれない。


買い物へ向かう運転中に、何かを振り返っていた(メモから)。

「こういう事か…」

私の内側の気づきは、それはそれで良いのだけどこの時思った。「全部(殆ど)そうやって整理してしまうな…。”こういう事か”と、”こと”まで持っていかず、”今そもの”で止まれば良い」、こんな感じに。

そうしたい(したかった)その”もの”に止まってみな。
いつも無意識にすっ飛ばしていた「わたし」を少し観た。

ーーー”こういう事を頭に流しているので、道を間違えるのです”と、これで言い訳ができました(笑)ーーー

(この「間違えた道」の事もメモしてあるので、それは明日…入るかな)

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☆うみのみか☆
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