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猫の客
"ーうちの猫だよ、という妻は、うちの猫ではないことを知っている。だからいっそう、自分の、とても遠いところからの賜りものと思いつめる様子だった。"2001年発刊の本書は、庭を通ってあらわれた小さな訪問客との交流、別れを。時代や季節の移ろいと共に描いた国際的ベストセラー小説。
個人的には猫好き。また"『吾輩は猫である』と並ぶ"という帯文句に以前より気になっていたのですが。ようやく手にとることができました。
さて、そんな本書は1988年、昭和がもうすぐ終わろうとするバブルの時代に、広い敷地内の離れの借家に住む編集者夫婦が鋭角に折れている様子から"稲妻の図柄に似てる"と『稲妻小路』と呼んでいた小路にまぎれ込んできた仔猫が【隣家の飼猫となった後】で、庭を通った交流が静かに始まっていくのですが。
まず最初に、これまでも夏目漱石の『吾輩は猫である』はもちろん、号泣必至の内田百閒『ノラや』そして最近だと、レイチェル・ウェルズの『通い猫アルフィー(シリーズ)』など、国内外の猫小説を手にとってきましたが、それらの小説と違って、あくまで自分たちの飼い猫ではない【隣家の猫との交流】を詩人でもある著者らしい【美しい文体、ウェットになり過ぎない距離感】で描いているのが戸惑いも含めて新鮮な印象でした。
一方で、自分たちでは飼っていない。とは言え"所有者"にこだわるのではなく、猫への愛情があるからこそ【ありのまま、自由にふるまってほしい】そして、それを【ずっと見守り続けたい】という"猫好きあるある"な気持ちは文体の後ろから透けるかのように痛く伝わってきて、別れも含めて感情的になってしまいました。
夏目漱石のフランス語への翻訳者にして、本書の翻訳や解説も担当した末次エリザベートから帯文句で『吾輩は猫である』と比較されているのかもしれませんが?良い意味で対照的というか【全く違う猫文学傑作】だと思いました。
猫好きはもちろん、飼う。ではなく、猫とは'客"として。対等に交感したい、している人にオススメ。