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日々是徒然。中川多理『薔薇色の脚』出版展覧会/そこに向う[蜃]の長い呟き。

 浅草奥の方、吉原に近いところにかつて存在した淡紅色のサロン。

『ガランス』


 合田佐和子が意匠デザインした淡紅色の喫茶店『ガランス』は、当時、珍しかったチーズケーキが二種類あって、オペラをかけているプレイヤーの廻りにはふさふさの毛の猫が三匹うろうろ客を品定めするように歩いていた…四五人入れば狭く感じた、その店のオーナーは小柄の女性で仮にMさんと呼んでおこうか…今でも千束通りでちらりと見かけることがある。
 唐十郎と仲良しで状況劇場の初日には必ず顔を見たし、金子国義とも四谷シモンとも遊び仲間的に仲が良く、これまた展覧会のオープニングではケイタリングをする姿を見かけた。
 『ガランス』のトイレには、細江英公が吉原で撮影した四谷シモンの妖艶な写真が飾ってあって、(撮影場所をMさんが紹介したの)訪れれば必要なくとも一度はトイレに立ったものだ。合田佐和子さんの絵も何枚も飾ってあり、青木画廊界隈をうろついていた自分にとっては、至福の場所でもあった。
 今だったらロリータさんたちが、お茶をしたいナンバーワンのお店になったかもしれない。内装も淡紅色、乙女仕様で、それはそもそもMさんが乙女であったから。金子功の服などきっとお似合いだろうけど、そうしたブランドの服ではなく、自分でどこからか調達していた。
 サロンのようになっていた、『ガランス』の当時のお客は、なかなかハードな男の子たちも沢山いて、今は歌舞伎役者になっている中村蝶紫(えっと名前変わったかな?)とか、絵描きの金子仁とかがまだ無名常態でよく遊びに来ていた。彼らは『ガランス』の裏にあたる吉原付近に点在して住んでいた。
 かくゆう自分も通っていて…35年くらい前に通い始めた。いろいろあって20年くらい前に閉店した。
 『ガランス』は乙女ファーストなので、紅茶にケーキ。たぶん珈琲はなかったと思う。オーダーがあっても、Mさんが『あら珈琲なんてお飲みになるの?』なんてあしらっていたかと…記憶する。全部が揃っている本格の乙女サロンだった。シモンもネコちゃんも時折姿を見せていた。
 もちろんロリータ服も、ゴスロリという言葉も、嶽本野ばらも影も形も煙もなかった。

『CHOCOLATE JESUS coffee and tea room』

 さて現在、かつて『ガランス』のあったところから通り一本くらい手前、千束通り中ほど左側に折れて三件目あたりに、『チョコジー』がある。(通称なんだけどオーナーがご自分でそうおっしゃっている)。『ガランス』に劣らず乙女度120%。もちろん乙女の種族は違う…こちらは文化人の匂いがしないが、代わりにクリエーターの雰囲気がする。ケーキも美味しい…で、珈琲が抜群に美味しい。香りが高くて(スペシャリティな感じ)さらりと苦味が、濃くも適度にあって浅草近辺では今、僕的第一位。僕的には『バッハ』を抜いてしまって、ショックといういうか嬉しいと云うか…。
 どうして珈琲が美味しいかなんて、別に聞くこともなかったんだけれど、昨日、チョコレートケーキがでたときに、(1種類しかない。何があるかは彼女次第)これいつもと違いますねと云う顔をして飲んでいたら、『チョコジーブレンド』で、チョコに合うように作ってもらっているんです…と話をしてくれた。なるほど…。
 彼女は、珈琲が飲めない体質だったのだが、何故か珈琲に惚れ、そのお店で7年も修業して焙煎にも挑戦して、それは果たせず、購入して淹れるに専門することにしたと。あ、丁寧に淹れて美味しいと思ってたけど、腕も本格だったのね。美味しい訳だと、一人納得。
 『チョコジー』に紅茶はない。乙女でも珈琲。本格の珈琲。その取り合わせが[所謂]という定番をまったく気にしていなくて、でも圧倒的乙女…。インスタを見ると、彼女は最近長野に農業用の家を手に入れて大改造中。自分で改造している。左官もやるらしい。乙女なカッコで長靴履いて作業している姿が映っている。楽しそうだ。軽トラの荷台で夜明かししたら寒かったなんてことも書いてある。
 アイテムがすべて[所謂]乙女でなくても、むしろ、でないからこそ、乙女が際立って見える。女子性を出すのが、男的なものの反対であったり、男にカウンターをかけて出していない。彼女には素敵な男子パートナーがいる。映像作家らしい——形やアイテムやスタイルじゃなく…乙女。
 
『ロリータ服』

 雛人形の頃から少女は、男の作家の手で作られてきた。人形には男の少女に対する思いが反映される。良い男と結婚して欲しい、できれば金持ちの…とか。もちろんすくすく育って欲しいと云う思いがある。ここらあたりから、大まかにぐいぐいと話をしていく。例外はたくさんあるごご承知おきを…。
 創作人形も男性が少女や女性を作る時代が長くあったが、今や、女性が少女の人形を作り、多く女性がその人形をもとめていくところになった。男の視線や欲望の延長線上に少女の人形が作られた時代は、(今も少女の人形に欲動する男のひとたちはいる。もちろん。)趨勢としては終わっている。
 たぶん天野可淡が感情すら表現して良いのだと女性の革命を起したと見ている。…それはまたのときに…。可淡を起点に、創作人形の世界は、変わっていく。中川多理もピグマリオンで人形を習った。どこかに天野可淡の人形はあるだろう。
 女性が自分のためや女性のために人形を作る方向に向っている。[ために]というためはなかなか限定しにくい概念でもあるが、少なくても男の視線のためではなくなってきている。
 しかし、もちろん逆に男の視線のために作る創作人形もある。ロリータ服が、ストリートから男の為に着ているわけでないところから発生して、ピックアップされて、数多のブランドで生産され消費されてたように、そしてメイド服が生まれ一部は、男の視線をもらいお金を払ってもらう風俗のために着る服にさえなって…堕落していくように…
だって、販売されているロリータ服は主にフリーサイズで、腰の辺りにはゴムでギャザー、どんな腰回りでも対応出来る、そして服の前の部分も二本のリボンで引き上げて首の後ろで結ぶので、痩せていようが超デブだろうが、着れるようになっている。ロリータ服は、その源流にすれば、服のデザインに身体を合わせるという、拘束服なのであって、服のデザインが身体を決めるのである。フリーサイズにすれば、服のシルエットをデザインする必要もないので、素人のデザイナーでもどうにかなる。着る方もどんな体型でもOKで、それで可愛いと自分が思える——そういうしつらえになっている。
 少しロリータ服に戻ると…表層だけを利用しようとしている、本質に興味のない人たちは、ロリータ服とメイド服の違いが分からない。だから女大臣がメイド服を着て、仏蘭西に可愛い文化キャンペーンにいくのだ。ロリータ服を正統に着る原形のような一人から発生した…そしてゴスロリの大きな潮流になった流れの中で、絶滅危惧種となったその原形は…また四半世紀をふいにあらわれた。微妙に変形強化されて。彼女についてはまたどこかで触れることもあるかもしれないが、ロリータとは[矜持]という姿勢であり、身体を限りなく不在にしたうえでの精神のありようであるとだけ云っておきたい。『夜想』大判は無駄ではなかった。

 創作人形も消費者の嗜好に寄っていく。フィギィアにすり寄り、二次元の立体という身体性を希薄にした人形が成立し、創作人形の巨匠がそれを教えたり、作ったりもする。視線の消費と金銭での消費がそれにドライブをかける。
 
 さてここからが、少し深く入り込む、徒然の話。そしてその思考の実験室。

 人形を書く人たちは、人形を撮る人たちは、意外と人形をしっかり見ていないことが多い。もちろん自分は見ていると思っているプロの人たちは多い。
 死期を予感した時に、ふっと、人形が気になり、ほとんど人形を見ないまま、体験しないまま…学者なので資料によって人形を語る。そのときに使われた資料が中二病が少し入っている、ゴス系視点の人形論だったりする。ついこないだまで流行っていた「ゴス」は、所謂のサブカルで、ゴシックとはほとんど縁のない極東の現象——その中二入りのゴスばやりの人形論をしたじきに論じる。そしてその著作が東京大学の研究会で一線の研究者たち(仏蘭西哲学)の議題になる。
 
 ここまで書いてきたことは、世の趨勢の現状である。現場での唯一といっていよい[感想]で、[趨勢]というからには、その見方は変更出来ない。
 人の見方は変更できない。変更出来ない、変更しない思考や見方が劣化しながら渦巻いていく——だからこその趨勢、だからかわない。人は一端身体に淹れた、楽な思考を変えることはできない。変えないまま追求しないまま生きていくのだ。
 ただし。
 矜持をもったロリータが少人数残っていたり、現代の創作人形を、人形として見いだそうとして作り続けている作家も稀にいる。
 そこを見続ける。それが自分にとってのいきみちである。

『白堊の肖像』

 誰かが書いていて、ちょっと出典が記憶に残っていない——人間に起きることは人形にも起きる。必ず起きる。
猫を虐待するために里親から受け出す、虐待する。猫に起きることは人形にも起きる。
 この場では書かないが、人形は今や虐待を受ける。それは破壊されるという行為ではなく。虐待なのだ。当事者の人形は口を聞けない、当然のこと、虐待を[受けた]という衝撃は、作家に伝播する。
 作家に指一本振れず、虐待をかけることができるので、もしかしたら標的は作家なのかもしれない。SNSはその中で最大限の効果をもつ。いろいろにテクニカルなことがあって、SNSを挟むと、法律で裁かれ難くなる。で、裁判を使ってさらに作家と人形を虐待することができる。そのことに関してはドキュメントファイルをもっている。
 もっと巧妙な攻めもある。人形のもっている——たとえば中川多理の人形は、ダイレクトではないけれども性的な もあれば、広い意味での人間的な身体感を強く持っている。
 そのことによってオブジェや彫刻にならない、あくまでも人形というところに存在し続ける。
だから鳥の姿をしていても中川多理の人形には、[人感]がある。

 中川多理の人形がもっている性を身体性を剥奪しようと、SNS的な手法で、自分では手を下さずに命令が伝えられたこともある。架空の文学中ならばそれもよかろう。身体を性を必要としない文学も存在し、そこに希代の幻想性をもつこともあるのだから。このあたりのドキュメントファイルも秘して出せない状況にある。だせないからこその立場を使うことをパワハラと云うのではないかと思うが、人形にもパラハラはなされる。
 でもこれは裁判にはならない。世の中の人たちは云う。人形じゃないか——。

 この数年、もしかしたら数年よりももう少し長い間、中川多理の人形は、人間にされることならどんなことでも人形はされる——そんなことどもを、されてきた。人形は「ひとがた」と云われるけれど、そしてひとの代わりにという形代とも云われるけれど——人形は以前にもまして人であるかもしれない。いや人以上に衝撃を与えられるかもしれない。

 『女殺油地獄』という演目があって、文楽と歌舞伎の両方で今は演じられている。細かくは舞台か、戯曲を参照してもらいたいが、与兵衛が親を叩くシーンがある。仁左衛門が演じれば、手ぬぐいで[ぶつ]ふりをする、文楽だと、けっこうばしばしと叩く。人形だからそこはリアル。近松門左衛門は、現実に親をぶって金を奪う人間が世間にいるからこそ、そこを組み入れた。親を殴ったり、殺したりして金を奪う子供は今でもいる。その細部は知られない。警察は見せないから。だけどあちこちでそんなことは行われている。仁左衛門のような美しい、人の良さそうに見えるように演じている俳優が、親が額から血がでるように殴る演技をすることはできないし、しない。仁左衛門だから。お客はそんなものを見に来ているわけではないから。
 文楽でも表現はだいぶ柔らかくなっている。現実の、どこかに存在している、いやあちこちで存在している[親をぶつ]という行為が感じられるようには演じられない。だけど世の中にはたくさんある。逆もある。親が子供を虐待する。暴力もあるし、心を折るような暴言もある。暴言は大きな声の恫喝とは限らない。で、文楽の人形、叩きかたによっては——人形の側からすると叩かれかたになるが…現実の行為を抽出して描くことができる。伝えることができる、観客に。なぜできるのか——人の代わりをしている人形だから。
 たとえば文楽で殺されるたびに、人形が破壊される——そんなやり方をしたとしよう。物語の中でそのように殺され/壊された時、衝撃は、演じる大夫にも、義太夫にも、観客にも、頭を作る作家にも走る——だろう。それは表現がきつきからではなく、殺される人の視点に立ってしまうからだ。

 人形にパワハラをしたり、虐待をしたり、DVをしたり——実際に起きているのだからそう書いてもよいだろう…するときに、作家や周辺にいるスタッフたちは、ほぼほぼ自分が受けたのと同じ感覚を覚える。相手が人形なので、表向き隠していた、闇の欲動は抑制もなくその本能を顕にして——それに相応しい行為をする。

 中川多理はそれを被災し続けてきた。10には至らないかもしれないが近い人数からの被災を受けた。いや正確ではない——中川多理の人形は——だ。

 その被災の痕跡を払拭して『白堊の像』が『薔薇色の脚』を抱いてパラボリカ・ビスにあらわれた。

[この呟きは続きます]

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