フラッシュメモリー2022—02 『泥人魚』作◉唐十郎 演出◉金守珍(Theater cocoon)+『唐十郎のせりふ』◉新井高子(幻戯書房)
宮沢りえは、コクーンでの唐十郎・台本芝居『下谷万年町物語』『盲導犬』『ビニールの城』に出演している。どれも唐十郎の名作だ。『下谷万年町物語』『盲導犬』は、蜷川幸雄演出。『ビニールの城』が金守珍演出。でもそのなかで宮沢りえ、そんなに輝いていない。これは想像だが宮沢は受けの役者なのでは…ないかと。演出家に染まって演じるタイプ。だから野田秀樹の演出になると、なんとなく台詞が子供っぽく、ちゃかちゃかした身体の動きになる。『泥人魚』主役の[やすみ]を演じる宮沢りえ…登場してしばらくは、ベールが掛かっているようにもやっとしたイメージの[やすみ]だった。そのベールを一枚ずつ剥ぐように(自分で…)芝居が進んでいく。戯曲の中を泳ぎながら何かを見つけていくように——そして泥人魚になっていっく。宮沢りえは、パンフレットにこう書いている。「今までの作品(唐十郎の)とは少し流れている空気が違う気がしました。」と。金守珍の演出ではなく自分で何かを見つけたのでは…。
『唐十郎のせりふ』◉新井高子(幻戯書房)によれば、状況劇場を解散して、唐組になってからの戯曲は、それまでの戯曲と少し異なると…。なるほど…。「泥人魚」がその代表作である。と。寺山修司の側に居たので唐十郎の芝居を追求することもせずにいたが、その一文にはっと気づかされた。状況劇場の唐十郎と、唐組の唐十郎はだいぶ違うんだなと…。さて宮沢りえは、戯曲の「泥人魚」隙間に自分の演じる空間を見つけたのだと思う。ちなみに最近『ビニールの城』(沖積舎)の戯曲を読んでいたら緑魔子のインタビューが載っていて、「私ね、台詞と台詞の間、行間ていうか、書かれていない空間がね、すごく好きなの。そこに遊んでいられる。~行と行の間でいちばん遊ばせてくれるのが唐さんなんです。唐十郎と出会わなかったら芝居続けてたどうか分からない。」と答えていた。劇団第七病棟に向けて書かれた戯曲『ビニールの城』だとはいえ、濃密な言葉の、その一行と一行の間に遊べるって! あの唐十郎の魔ジックが満載されている『ビニールの城』の行間…そこに役者の入る隙間があるのか…そして遊んでしまう空間が。
『ビニールの城』を読み直して、『泥人魚』との密度差を比べてみたりしたのは、『唐十郎のせりふ』を読んだからだ。唐十郎、ホフマンやネルヴァルにも匹敵するロマン主義の書き手として、そしてもちろん演じ手として、興味も尊敬ももっていたが、もともと自分は寺山修司を心の父としているので、戯曲と舞台を比べたり、追求したりする気持ちはなかった。なのに『唐十郎のせりふ』を読むとついつい唐十郎を追求したくなってしまう。それは、新井高子が、褒め称えすぎたりのよいしょも、自分は分かってるぞ的な上から目線もなく、戯曲と舞台と演出と役者と並走してこの本を書いているからだ。唐十郎が好きで、唐十郎の舞台が好きで…そしてなにより唐十郎のもつポエジー——それは言葉にも演出にも現れていて——に感動しながらほら、そこ! と言って目をキラキラさせて居いるからだ。どこどこ?それはどこ?——と今度は読者である自分が、本に、新井高子に並走したくなってしまうのだ。読者の好奇心を動かし、舞台を構成している様々な要素——戯曲、その言葉、役者、その身体と声、演出…打ち上げでの唐十郎の演劇…に引きずり込む、不思議で魅力的なスタンスで書いている。
コクーンの『泥人魚』のパンフレットには、戯曲の所謂ねたばれ的なことが書かれている。唐十郎も「誤読」ということを言いながら、妄想の経緯を語っている。とすると嘗て、極小の場から、妄想と迷走を重ねて、広いところや現実のようなところにテントを跳ねるあの唐十郎は、今はないということなのだろうか。『唐十郎のせりふ』に書かれている「極小の海」を再構築すること。小さな水槽に海原を幻視する「想像力のレンズ」がある。この演出でそれが可能なのか?本を読みながらどんどん深みに嵌まっていく。状況劇場時代の戯曲と、唐組時代の戯曲に構造的差はあるのか。僕は少しの舞台しか見ていない唐組の唐十郎の演出はどうだったのか。戯曲と絡めて思い出して見たい。
僕は言ったら受けの人間で、自分から何かをしにいくことはない。自分が今興味をもってやってきたことには、全て[発端]がある。導師なしに僕はそのジャンルに足を踏み入れない。良く書く話なのだが、日本舞踊が見えないとぼやいていると、Mが、待っていれば良い、見にいったり分かろうとしにいったら駄目。と、言われてぼっと2年も歌舞伎の踊りの舞台を見続けたら(先代井上八千代もおっかけた)尾上梅幸の踊りがすっと身体に入ってきた。ある日、突然。良く突然語学が聞こえるようになるという、あの感じだ。(というか語学でそれは起きてないんだけど)『唐十郎のせりふ』は、僕にとって唐十郎の[発端]になってしまっている。知らないうちに、気づいたら。唐十郎のことが気になってしかたがなくなった。もちろん書かれたものに一番興味がある。
[発端]になる本は然う然うあるものではない。舞台も…。たぶんこれからも何度となく『唐十郎のせりふ』を読みながら、舞台を見に行くんだろうな。