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フラッシュメモリー◉空ろな目/虚ろな身体。/『ペトルーシュカ』勅使川原三郎・佐東利穂子①

空ろな目/虚ろな身体。

僕は、昔から海馬の機能がすごく弱い。記憶の機能も極端に低い。
母親と弟と三人で神経衰弱(ゲーム)をするといつも一組もとれない。セブンブリッジとか七並べ(AとKをリンクさせるルール)で負けると二人は必ず神経衰弱にゲームを変えた。本当に一つもとれない。まぐれも起きない。
喫茶店でみんなのオーダーを纏めて店に伝えることができない。それも単純なやつだ。珈琲二つにカフォオレに…このあたりでもう聞き返す。えっと最初の○さんは珈琲だっけ?
それでも、それだから強く海馬に焼き込まれていることもある。寺山修司、土方巽、ヨゼフボイス——。もちろん勅使川原三郎の舞台もある。初期の1~2年、ツアーについて全舞台を見ていたこともあるから…。だけれどもそれはもう何十年も更新されていない。
ところが、ぼろぼろの使えない僕の海馬に焼鏝をあて、腐食銅版図のように刻まれたダンスがある。きっとこのを一生涯もっていくに違いない。墓に入るなら墓まで…。散骨されてベネチアの昏い運河に沈むなら、そこまで……。
ダンス…むしろ表情…貌の、身体の全体の——。
アパラタスで踊った勅使川原三郎の『ペトルーシュカ』のラスト…。いやラスト近く…だったかもしれない。魂が抜けていて、しかしながら誰かの魂がのっているような……。生きているのか?死んでいるのか。生きている。目を見開いて。でも視線は朧。朧だけれども何かに向かっている。呆然とそして確信をもって。
あの貌はいったい…。絶望なのか闇に光りを見ようとしているのか。
その姿、貌の表情が僕の海馬に焼きついている。

『ペトルーシュカ』は、1911年にストラヴィンスキーが作曲、ニジンスキーとカルサヴィナが踊った。人形が命を吹き込まれて恋におちるというのがバレーの物語。「サブローとリホコが踊る。死体を生き返らせ、何度も死んでは生きる、いつまでも死んでるなと、おどけた死体が踊らされ、踊り子への愛。 踊る道化の沈黙の叫び」と勅使川原は語っている。その言う通りに何度糸を切られ倒れても、操り人形は生きる。死体のまま生きて踊る…糸が切られて動けなくなっているはずなのに、動く。倒れる。生きる。死ぬ。また立ち上がる…断線間際の電燈の明滅、神経の奥に触る。体験したことはない…でも映像で体験した拷問の密室…揺れる電燈。その光の明滅のなかで、ストラビンスキーの曲は、コラージュされて激しさを増す。インダストリアルな『ペトルーシュカ』。バレーから、ストラビンスキーから、ニジンスキーからも遥かに遠く。柱に身体を打ち付けている。最近見たな…。打ち付けるシーン…。あ、そうだ飴屋法水だ。文脈も印象もまったく異なる。でも身体を柱にぶつけている。身体は誰とつながっている。その身体は誰だ?飴屋法水の身体は観客とつながっている。だから観客は痛い、柱に打つ身体を共有する。勅使川原三郎はどうだろう。夢の中のような…明滅する光、断末魔の海馬、その中で身体は反応せず、意識が反応する。なにやら分からない昏い感覚が、じんじんと海馬を侵す。勅使川原三郎の視覚にはいま何が写っているのか、ウクライナの戦場…屍体と同化する身体。遊んでんじゃないよ。起きなよ。何度倒れても起きれば屍体じゃなくなるよ。人間にはできない、命吹き込まれた人形ならできる。ほら…できるでしょ。そうならない、そうできない——のを知っている。でも、だから踊る。勅使川原三郎、人形になって。
昏い貌だった。でも打ち拉がれているというよりは、何か辛いもの…たとえば死とか惨殺とか…を見て受けとめている…はっきりと受けとめて…見ている。深刻でも絶望でもない、[見て受けとめている]。勅使川原にも答えはなく、究極の問いを、自分に問うている、身体をもって…というようなことなのかもしれない。

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