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『薔薇色の脚』中川多理人形作品集/出版と展覧会について ②

展覧会を前にして中川多理の人形が搬入された。
 写真で製作過程を見ていた。薔薇の脚のプロトタイプ、ビスク版は一度試作段階を手にした。
しかし。
 梱包から解かれた人形たちは——。
言葉を失った。
見ていただく他はない。言葉は、もしかしたら追いつかないかもしれないし、ないのかもしれない。
誰か何かを見てとれる人が、流麗なヘアラインで、言葉をこの子たちのどこかに…
傷をつけずに
さしこめたら。それを機に見ることも可能になるかもしれない。

中川多理が考えていること、は、少し分かる。
展覧会のサブタイトルにあるPassageパッサージュ。
決意であり、プロジェクトシートでもある。
ただ、そこにあるひとつの言葉
それがあれば進んでいける。そういう言葉だ。

人形を見る前にふっと聞いた時には
巴里のお洒落な通路をイメージしたが、あるいはベンヤミンの…。
これは、
過去・現在・未来が
交錯混淆しながら通行する時空の通路。

僕の友人が[隘路]という言葉を贈ってくれたが
この通路は狭く、
それほど洒落てもいない。
もしかしたら塹壕路のように
移動するのが大変な通路のような気がする。
だけれども
展示されているビスクドールは
微塵も見せず、感じさせず
時を混淆させながら
透明性を微妙に保持しているかんばせを
膚を覗かせる。

隘路は
別に地下でなくても良い気もするし
空中でも構わない。
だがどこまでも中川多理のパッサージュは、
若干の狭苦しさを感じる
拘束感のあるところで
人形たちは生まれる。

[不在]という最大の拘束を受けた
過去→現在は、
現在→未来のひとつに変異している。
鮮やかに転身している。
この時の混淆は
同時に存在する。

中川多理の創作人形は
たとえば物語の少女を表現した時
そこには物語の全体も映えているし
物語の中で推移している少女の変化も胎蔵している。
フィギアが目に見えないような
1000分の1の時を止めて形状化するのとは
対極な
時と、空間とに物質を
世に精神とか云われているものを
同時にもった
ひとつの[ボディ]となっている。

さて人形たち、この展覧会に来た人形たち
長いコロナの沈黙期の裡に
あれほど受難のように受諾していた拘束の跡を
一切見せていない。
「白い海」の頃の
受難を救いに変えるような
[受難さえ]
というタイトルを付与したいような…
その記憶も甦る
が、別の未来
現在の[苦]の先にある
白い光が肌に予感している
と、感じる。

さらにまだはっきりと見えてはいないが
予感がある。
未生の昏さを、被虐の傷を
見せずそれそのものを表現できるメディアを摑んだのではないだろうか
ということだが
それは、まだ。
先の愉しみにしよう。

今は、函の裡に白く発光する
この子たちの
お披露目を——。

『薔薇色の脚』中川多理人形作品集/出版と展覧会について①

『薔薇色の脚』中川多理人形作品集/出版と展覧会について③https://note.com/pkonno/n/n5ce9dcb8d487


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