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誰よりも評価されるような結果を得るより、その挑戦を楽しめる自分でいたい

先日テレビを見てたら、バラエティ番組で、地下アイドルが自分のお父さんにグループの解散を伝える、というシーンが流れていました。
その時に、アイドルの方が
「あんなに応援してくれたのに、結果出せなくてごめんなさい」
と涙を流していました。
私は思わず「なんで!?」と口走りました。

お父さんも言っていたのですが、その方は一人で上京して、地上アイドルを目指してとっても頑張っていたとのことです。
20代の数年間を一生懸命駆け抜けてきたんだろうということは、たったの数十分、編集済みの映像を見ていた視聴者にさえ、ひしひしと伝わってきました。
それなのに、「結果を出せなくてごめんなさい」と泣く。
いや、きっと酸いも甘いも色んなことがあっただろうけど、よう頑張ったじゃないか。なんで泣くんや、謝るんや。
全然気持ちは分からんでもないのですが、私的にすごく違和感を感じてしまったのです。

私もこの人生ずっと、結果だけが評価される世界で、結果にこだわって生きてきました。
(多くの方がそうだと思いますが)
絶対に失敗できない受験(いや全然失敗していいと思うけど)、
絶対に失敗できない就活(いや全然失敗していいと思うけど…てか失敗って何)、
とにかく失敗はだめ、結果が全て、勝ったか負けたかの世界でずっと勝つ方にしがみついてなきゃいけない。負けたら終わる。と思って生きてきました。
でも、大人になって、失敗の方が尊いと感じるようになりました。
なぜなら失敗は自分に学びのきっかけを与えてくれ(そこから学ぶかどうかは完全自分次第だと思います。失敗しても学ばずにやり過ごすことも全然できるから自分次第ではありますると思いまするけども。)視野や選択肢が大きく広がるから。
失敗は自分にとっては学びの多い、とても貴重な経験になりうる。
でも、社会的にはそうではないとも思うのです。
「やるからには結果を出しなさい」「せっかくやるんだったら1番を取りなさい」
子供の頃先生や親に言われた覚えのある言葉ですが、自分が何か挑戦する時に結果をいちいち求められるのって、悲しすぎやしませんか。
(あくまで私はそう思います)

もちろん、結果を出せるというのは素晴らしい。
勝つというのは素晴らしい。
その成功体験がどんなに自分を勇気づけ、自信を与えてくれるか計り知れない。
でも、それだけのために取り組む心は、何か失っていないか、疑問に思うのです。
イタリア語で、「何もしない喜び」という言葉があります。(ドルチェファルニエンテみたいな言葉だったと思います)
何もしなくても喜びを感じられる、感じようとするイタリア人のスキル、今の私にはないんですよ悲しいことに。
何もしなくても喜んでいいんだから、そもそも何かに挑戦すること、取り組むこと、続けること、やめることも全部喜びだけのためにやってもいい、というか、それを喜びたい。
取り組みをマネタイズしたり、実用化したりすることは大切だけど、ただ生きてて起こりうる事象を楽しめる心こそが真摯に生きることのように、今の私には思えるのです。
まあこれはあくまで私の趣味嗜好なのでキモいやんこいつと思う方がいて全然当然だと思うのですが、私はそういうのが好きなんですよね。
日々を真摯に見つめて真摯に生きる、そこから生まれるアートや文学こそが私のすきなものなんですよね。
つい結果ばかりを重視して、楽しむことを忘れがちになってしまうんです。
ただ、自分のためにも、ただ目の前のことを楽しむこと、意味なんてなくていいということを、時々思い出したいって、思いたいのです。
それを忘れないようにい、つも自分に思い出させてあげたいのです。

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