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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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人が人生と本気で対峙する様こそ、この世で最も美しいものだと思う私は、良質なホラーゲーム達はまさに芸術そのものだと思うって話。

最近素晴らしいゲームに複数出会ってしまって私の心は爆発しそうです。
(いや爆発中です)
もったいなさすぎてこの楽しみをもっと延長出来ないかと悪巧みをしたいものですが、もう既に心は奪われているのでもう無理です。
このnoteではホラーゲームについて書いていきたいと思います。
※一部の作品についてネタバレを含みますのでご注意下さい※

最近出会った素晴らしいゲームの一つは「Burnhouse Lane」です。(日本語対応しています)

簡単にあらすじを書くと、 主人公の派遣看護師アンジーが、自殺に失敗するところから始まります。
末期がんの彼女は、五つの不可能に近い試練を遂行できれば、自分の命を勝ち取れるという設定の中、激キモサイコパス達をあの手この手でぶっ殺していく…という内容です。
その中で、彼女は先立たれた夫、派遣先の介護対象である老人、キチガイ神父に性的暴行をされているところを助け出したことで仲間になったモデル、老人の農場のご近所の厄介者など、様々な人達との関係を通して自分の人生と向き合っていく…という話です。

もう一つは「The Cat Lady」です。(日本語対応していません)
(しかもなぜか(いや内容からして当然なのですが)サイトに年齢制限かかっているのに「Burnhouse Lane」には年齢制限かかっていないという…個人的には「Burnhouse Lane」の方がエグい描写ありましたけどね…)

こちらは「Burnhouse Lane」を開発したハーベスター・ゲームズの代表作とも言えるゲームで、鬱ゲー界でめちゃくちゃ高い評価を得ているそうです。(当方は海外の鬱ゲーに関する知識が乏しく存じ上げませんでした)
こちらも「Burnhouse Lane」とあらすじは似ていて、自殺したが何度でも生き返ってしまうという自殺志願者には最悪の魔法(呪いとでも言うべきか)をかけられたスーザンが死神からの試練を乗り越えていくというもの。
話の中で、友達のいないスーザンが初めて心の内を明かしたり、「死ねない」という呪いを利用して人助けをしたりして、対人関係から得られる「何か」を学んでいく…というものです。
(認識に人それぞれ相違はあるかもしれませんが、あくまで私の解釈です)
(ハーベスター・ゲームズの主人公は悪人を殺していく運命にあるのですが、完全超悪を成敗しているという感じよりは、愚かな人間同士の殺し合いって感じがします、ホラーゲームにヒーローは存在しない…)

ホラーゲームの魅力とは何でしょうか?
スプラッター的な描写?憂鬱な世界観?不気味なクリーチャー?
きっとそれらに重きを置くファンは沢山いるでしょう。(ナースが登場しないサイレントヒルなんて…って感じですしね)
私は、それらの表現物(ももちろんのことながら)よりも、個人的には、物語を支える哲学が最たる魅力だと感じている派です。
ハーベスター・ゲームズが作るゲーム達は、逃れられない病による苦しみ、社会に馴染めない苦しみ、自分に向き合えない苦しみ、世界を諦めきれない苦しみ、、、
どれも特別では無く、誰もの身に降りかかるような苦しみについて描かれています。(少なくとも私はそう感じました)
物語の中には完璧な善人はおらず、愚か者で、聞き分けが悪くて、自分勝手です。
でも、皆、助け合いたいし、人に本当の自分を打ち明け、人から本当の自分を打ち明けられてみたい、と思っている。
そのような人間らしい苦悩とともに、「生きる」ことについて主人公達が向き合っていく…
そんな描写を通して、人生にまつわる哲学が多分に織り込まれていると感じました。

人生には、自分の力ではどうにもコントロール出来ないこと(不運)が多分に起こり得るものです。
それは、特別な選ばれし誰かにのみ起こるのでは無く、誰の身にも起こり得る可能性があります。
たとえそのような出来事が起きなかったとしても、生きる、ということは困難がいくつも起こり得るものです。
その時、自分の人生を全うするためにどのように生きていくか?
また、自分の大切な人がそのような状況に陥った時にどのようなことが出来るか?
人と人が共に生きていく、とは一体どのようなことなのか?
ゲームの中で爆発するそれらの哲学達に、私はどこまでも焚きつけられるのでした。

また、ホラーゲームを通して私は毎度圧倒的な「美」を見せつけられます。
ホラーゲームの主人公達は大抵、とんでもない恐怖に陥れられ、とんでもない不都合に見舞われ、絶望し、苦しみます。
それらは、主人公達が「生」と向き合っている時に見出される、と私は感じています。
例えばTHE CAT LADYの主人公であるスーザンや、Burnhouse Laneの主人公のアンジーが、冒頭で順調に自殺に成功してしまえば、物語は5分で完結するわけです。
しかしながら、彼女たちには不都合な「死を邪魔する者」(死神だったり猫だったりするわけですが)に、死ぬのを邪魔され、「生」と向き合わざるを得なくなるわけです。
特に、(めっちゃネタバレを含みますので苦手な方はご注意ください)
Burnhouse Laneの中でアンジーに最後に与えられる試練は、
神父レイプ魔をぶっ殺すことでも、豚とセックスする血液飲みBBAをぶっ殺すことでもなく、
自分の本心を他人に打ち明けること
なのです。
自分の本心と向き合う、とはつまり、自分の人生と本気で向き合うこと。
人生のラスボスは自分、ということなのでしょうと感じました。
こういった、主人公たちの「生」との向き合いの表現こそ、美であり、アートである、と私は改めて感じました。

ところで、芸術の真の目的は、内面の重要性を表現することである、と私は考える派です。
(これについては勿論全く正解ではないですし私の勝手な意見ですし、私は美術を専攻した経験はなく、民俗学考古学という全く芸術とはかけ離れた学問を専攻していたゆえ、大変知見の浅い人間の言う意見であることをご了承頂きたいです)
私なりの、(あくまで私なりの)芸術の定義を正とするなれば、ハーベスター・ゲームズのゲーム達はまさしく芸術だ、と私は思うのです。
(もちろんこれに並行して素晴らしいホラーゲームの名前を挙げたらきりがありません…。我慢出来ないのでいくつか決して外せないものを書きますが、
SIREN、サイレントヒル、サイコブレイク、ALAN WAKEなどは私にとってこの世の宝だと思います…。天才達による、天才達の最強のアートです。めちゃくちゃ挙げたりないですが、あまり書くと本当に文字数がやばいので死ぬほど我慢してここでとどめます(フリーホラゲも好きですよ!!!!!(我慢できない))

最後に全然関係無いですが、私は同居人に引かれるレベルで偏食なのですが、
最近昨秋〜今に至るまで同じだった平日のディナーメニューを変える機会がやってきてしまいました。
(理由は単純で、大根の煮物を一生食べていたのですが大根のシーズンがさすがに終わってなんか値段も高いし生きのいい大根がスーパーから姿を消したからです)
ディナーは厚揚げとその時安い野菜の炒め物と、海藻のスープに落ち着きましたが、海藻って旨いな、ということに気づき、このメニューで後何ヶ月続くかな…といったところです。
また、平日のランチもメニューを変えて、がんもどきにドハマリしています、がんもどき何あれ?うますぎん?
間食はメガマシュマロです。砂糖の塊なので控えなくては、と思いながらやめられません。
でもやめたい。
よし、明日全部食い尽くそう。(多分また新しいの買ってしまう)

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