【他者の理解を諦めないことは、「他者を受け入れられるという自分」の理解を諦めないこと】
最近ほんとにつくづく思うが、人生は伸びしろだらけすぎる。
(いつぞやのか○ぽ生命のCMを思い出す…りんご様…)
Twitterで誰かがつぶやいていたのだが、(またこいつTwitterかよ)
「あなたの発言が好きだからフォローしてたけど、最近私の意見と相容れないツイートをよくしているからもうちょっと共感出来るツイートしてくれませんか?」みたいなリプをもらった。
ん?
こいつ何言ってんや?
と思うと思うのだが、(私も激しく四度見したのだが)実際この発想、容易に陥りがちだなと思うのは私だけだろうか?
私は容易に陥る恐れがあるので(もしくはもう陥っている自覚があるので)このツイートを見て、はっとさせられたのである。
例えば、友達と意見が別れた時、「え~そういう考え方なの~センスねぇ~」と思う自分がいる。
(冷静にどんだけ自分が偉いんだよ)
それが1回だったらなんともならないかもしれないが、意見の衝突が何度も起きたら、
「今まで気づかなかったけどこいつほんとにしょっぺえな、もう遊ぶのやめようかな」
と思うかもしれない。
もしくは、「あいつがもっとこうしてくれればいいのに…」などと相手へ、自分が納得出来る存在であるよう変化を求めるようになるかもしれない。
…
…
…
つまりそういうことである。(どういうことだよ)
自分と意見が異なる人を無意識のうちに遠ざけたり、相手に変化を求めてしまう傾向が、私のような人間には大いにあるのである。
相手が私の意見を優遇し、私の方に歩み寄ってくれる都合の良い存在になってくれる事を望んでしまう。
しかしながら、至極当然のことだがこの世は他者であふれていて、それぞれ意見や夢を持って生きているのだ。
人の数だけ思想があり、嫌気がさすもの、共感出来るもの、無数に散らばっているのは十分理解した上で、私は受け入れられるものを増やしたい。
完全な自論だが、受け入れる事は、賛成する事と同義ではないと思う。
受け入れる事は、「自分とは違う考え方があるのだ」という事を受け入れる事だと考えている。(まんまです)
「自分が世の中で最も正しい」などと勘違いをしていると、簡単に他人を傷つけてしまいかねない。
そうならないために、異なる意見との遭遇をポジティブに活用する為に言いたい。
「人に変わってほしい」と思った時は、むしろ「自分が変わる絶好のチャンス」なのだ。
紛れもなく、自分の成長のチャンスなのだと。
「相手は自分の鏡」だ。
相手に不満を感じるということは、だいたい自分に不満があることのヒントであると思う。
そしてその不満はたいてい、相手が自分の思い通りにならない・期待はずれの思想を持っていたことに対するものだと思う。
(ここで言っておきたいのですが、「動物虐待を推進します!」とかものすごく極端に非道徳的(私にとってですが)だと、これはちょっとまじで無理だなみたいな思想はこの話に入ってきません。)
だから、何が言いたいかと言うと、「人を理解する事を諦めたくない」という事だ。
「他者を理解する事はそれを受け入れられる自分を知る事」と同じだから。
受け入れられるものを増やして、無意識に人を傷つけることのないように、自分をコントロールしていきたい。
そして、自分のエネルギーをポジティブに働かせられるように、死ぬまでずっと成長し続けたい。
そして、理解することを諦めて、相手が悪い、私もお前も皆もう嫌い、ではなく、もっと知って、もっと好きになっていきたい、と強く思う。