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鏡開きについて

まえがき

まず、前回の記事は、ウイリアム・ジェイムズの誕生日であるから、
意識の連続性について語り、それから、旧暦と新暦の中で鏡開きの連続性が失われていることを語った。さらに、鏡が本来はヘビを指すことも書いているという内容で、いささか自分にしては上出来のnoteになっていると自負している。
今回は宿題どおりに、ウイリアム・ジェイムズの心理学について書こうと思うが、その前に復習から書いていこう

ウィリアム・ジェイムズとベルグソン

両者は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した哲学者であり、その思想には興味深い共通点と相違点が存在する。

まず、両者に共通する重要な特徴として、反主知主義的な立場がある。これは難しく聞こえるかもしれないが、要するに「物事を理解するのに、論理や概念だけでは不十分だ」という考え方である。例えば、美しい音楽を聴いたときの感動を言葉で完全に説明することは困難だが、その経験自体は確かに実在する。このように、言葉や概念では十分に表現できない直接的な経験を重視する点で、両者の考えは一致していた。

次に、両者は「実在」というものを直接把握することを重視した。これは哲学的に聞こえるかもしれないが、日常生活に即して考えてみよう。例えば、リンゴを見たとき、私たちは「赤い」「丸い」といった概念を通してリンゴを理解するが、実際のリンゴはそうした概念の総和以上のものである。両者は、このような直接的な経験こそが重要だと考えた。

しかし、興味深い違いも存在する。特に「関係」の捉え方において、両者は異なる見解を示した。ジェイムズは、物事と物事の間の関係も実在すると考えた。一方、ベルクソンは関係というものは人間の知性が作り出した構築物に過ぎないと考えた。

また、時間の捉え方にも大きな違いがある。ベルクソンは「持続」という概念を用いて、意識の流れは分割できない一つの連続した流れだと主張した。これは、例えば一曲の音楽を聴くとき、その体験は個々の音の単なる集まりではなく、一つの連続した体験として存在するという考えに近い。一方ジェイムズは、意識の流れを「純粋経験」として捉え、主観と客観の区別を超えた直接的な経験として理解しようとした。

このような両者の思想は、現代の私たちの生活にも示唆を与えている。例えば、現代社会では効率や生産性が重視されがちだが、ベルクソンの「持続」の考え方は、それぞれの人が自分なりの時間の流れを大切にする重要性を教えてくれる。また、ジェイムズの経験重視の姿勢は、デジタル化が進む現代において、直接的な体験の価値を再認識させてくれる。

反主知主義な二人

主知主義というのは、人間の心の動きの中で、知性や理性を特に大事だと考えることをいう。これに対して、反主知主義は、頭で考えることだけが大切なわけではないという考え方である、感情、気持ち、直感、体験からくる知恵、間主観性など・・・スポーツや芸術においては、頭で考えただけでは感動や美しさなどは生まれてこないような感じもたしかにするものである。
私は今、スポーツ、芸術を引き合いに出したが、二人は時間を例に出した。
すなわち、時間は主知主義じゃ捉えらないだろうと主張したのだ。

時間について

両者は時間という私たちにとって身近でありながら、実は捉えがたい概念について、独自の深い洞察を残している。

まず、ジェイムズは「意識の流れ」という考え方を提唱した。これは私たちの日常体験に即して考えるとわかりやすい。例えば、今この瞬間の意識は、次の瞬間の意識へと絶えず移り変わっていく。朝起きてから夜寝るまでの一日を思い返してみると、それは静止した写真のような断片ではなく、連続的に流れる映画のようなものだ。ジェイムズはこのような意識の動的な性質に注目し、時間とはこうした「持続ブロック」が次々と入れ替わっていく過程だと考えた。

一方、ベルクソンは「持続」という概念を用いて時間を理解しようとした。これは時計で測れるような均質な時間とは異なる、私たちが実際に体験する生きた時間のことを指す。例えば、退屈な一時間と充実した一時間では、同じ六十分でも体験される時間の質が全く異なる。このように、ベルクソンは時間を量的なものではなく、質的な経験として捉えた。彼によれば、真の時間とは、このような純粋な持続であり、それは分割することのできない連続的な流れなのである。

両者の時間論に共通するのは、反主知主義的なアプローチである。これは難しく聞こえるかもしれないが、要するに「時間は知性による分析だけでは十分に理解できない」という立場だ。時間を理解するには、私たちの直接的な経験に立ち返る必要がある。例えば、音楽を聴くときの体験を考えてみよう。一つ一つの音を分析的に捉えるのではなく、メロディーの流れとして全体的に体験することで、はじめて音楽の本質が理解できる。

このような時間理解は、決定論への批判とも結びついている。もし時間が単なる物理的な量であれば、未来は過去によって完全に決定されてしまうだろう。しかし、ジェイムズもベルクソンも、時間の流れの中で新しいものが生まれる可能性、つまり創造性や自由を重視した。

彼らの時間論は、現代を生きる私たちにも重要な示唆を与えている。効率や生産性が重視される現代社会において、時間は往々にして数値化され、管理される対象となっている。しかし、ジェイムズとベルクソンは、そのような時間理解では捉えきれない、生きられた時間の豊かさを教えてくれる。それは、私たちが日々の生活の中で実際に体験している時間の質的な側面に目を向けることの重要性を示唆している。

「心理学原理」

ウィリアム・ジェームズの心理学について、特に彼の代表作「心理学原理」の意義と影響についてnoteする。まず、「心理学原理」が出版された当時の状況を理解することが重要だ。19世紀末、心理学はまだ哲学の一部として考えられており、独立した科学としては確立されていなかった。このような時代に、ジェームズは心理学を自然科学として扱うことを提案した。これは、例えば物理学が自然現象を科学的に研究するように、人間の心も科学的に研究できるという考えを示したものだ。

何度も書くが、ジェームズの最も重要な貢献の一つは、「意識の流れ」という考え方を導入したことである。これは私たちの日常体験に即して考えるとわかりやすい。例えば、授業を受けているときの意識を考えてみよう。先生の話を聞きながら、時々窓の外を見たり、お腹が空いていることに気づいたり、昨日の出来事を思い出したりする。このように、私たちの意識は静止した写真のようなものではなく、絶えず流れ続けている川のようなものなのだ。

また、ジェームズは感情についても革新的な理論を提唱した。「ジェームズ・ランゲ説」として知られるこの理論は、私たちが「怖いから逃げる」のではなく、「逃げるから怖い」のだと主張した。つまり、身体の反応が先にあり、それを認識することで感情が生まれるという考え方だ。例えば、暗い道で突然何かに出くわしたとき、心臓がどきどきし、体が固まり、汗が出る。そしてこれらの身体反応を感じることで、「怖い」という感情が生まれるというわけだ。このあたりは、茂木健一郎氏の言説も参考にしたい。

ジェームズの考えは、心理学以外の分野にも大きな影響を与えた。例えば、文学の世界では「意識の流れ」という手法が生まれ、登場人物の心の中を連続的に描写する新しい表現方法として発展した。また、教育の分野では、習慣形成に関する彼の理論が重要な示唆を与えている。習慣は「第二の天性」であり、若いうちに良い習慣を身につけることが重要だと主張したのである。

現代の心理学にも、ジェームズの影響は色濃く残っている。例えば、記憶の研究や感情の研究において、彼の理論は今でも参照される重要な基礎となっている。また、彼が提唱した実践的なアプローチは、現代の応用心理学にも受け継がれている。

フッサールへの影響

ウィリアム・ジェイムズとエドムント・フッサールの思想的な関係性について、特に意識と経験に関する考察を中心に解説していきたい。

ジェイムズからフッサールへの影響は、特に経験の捉え方において顕著に表れている。ジェイムズは、抽象的な理論構築に先立って、具体的な経験そのものに立ち返ることの重要性を説いた。これは単なる方法論上の主張ではなく、人間の意識や認識の本質に関わる深い洞察であった。彼が提唱した「意識の流れ」という概念は、意識を固定的な状態としてではなく、絶えず変化し続ける動的なプロセスとして捉えようとするものだ。

この考え方は、フッサールの「内的時間意識」の探求に決定的な影響を与えることとなる。フッサールは、意識における時間の経験を詳細に分析し、その構造を明らかにしようと試みた。例えば、メロディーを聴く経験を考えてみよう。私たちは個々の音を別々に聴いているのではなく、過去の音の残響(把持)と未来の音の予期(予持)を含めた、連続的な流れとしてメロディーを経験している。このような時間意識の分析は、ジェイムズの「意識の流れ」という洞察を、より精緻な現象学的記述へと発展させたものと言える。

知覚と存在の関係についても、両者の思想には興味深い共鳴が見られる。ジェイムズは「存在するとは知覚されることである」という立場から、意識に現れる現象そのものの重要性を強調した。この視点は、フッサールが「現象学的還元」という方法で追求した、「物事がどのように意識に現れるか」という問いと深く結びついている。

しかし、フッサールは単にジェイムズの考えを踏襲したわけではない。彼は独自の「判断中止(エポケー)」という方法を確立し、日常的な態度や科学的な前提をいったん括弧に入れて、意識の本質的構造を明らかにしようと試みた。これは、ジェイムズが重視した具体的経験への還帰とは異なるアプローチではあるが、両者とも「直接的な経験」の重要性を認識していた点で共通している。

このように、ジェイムズとフッサールは、意識と経験をめぐる探求において互いに響き合う思想を展開した。特に、意識を動的なプロセスとして捉える視点や、直接的な経験の重視という点で、両者の思想は深い関連性を持っている。彼らの考察は、今日でも意識や経験を理解する上で重要な示唆を与え続けているのである。

両者の思想的な対話は、現代の意識研究や認知科学にも大きな影響を及ぼしている。特に、主観的な経験をいかにして客観的に記述し理解するかという問題は、現代の意識研究においても中心的な課題となっているのである。

西田幾多郎への影響

さらに、フッサールから西田幾多郎へと影響は広がる。
西田が提唱した「純粋経験」という概念は、物事をありのままに体験することを意味する。これは単なる主観的な経験ではなく、主客未分の状態における直接的な経験を指している。例えば、美しい音楽に没入しているとき、聴いている「私」と聴かれている「音楽」という区別は消失し、ただ音楽経験そのものだけが存在する。この考え方は、フッサールの現象学的還元の方法と共鳴しながらも、より根源的な経験の次元を指し示している。

「超越論的主観」の問題に関して、西田はフッサールの考察を更に深化させた。意識が対象をどのように認識するかという問題において、西田は単なる認識論的な分析を超えて、意識と対象の根源的な一致という観点を提示した。これは、東洋的な非二元論的思考とフッサール現象学の統合という側面を持っている。

特に注目すべきは、西田の「絶対矛盾的自己同一」という概念である。これは、矛盾するものが高次の次元で統一されるという弁証法的な考えを示している。例えば、「生」と「死」は対立するものでありながら、より深い次元では一つの現実として統一されている。この考え方は、フッサールの意識分析を超えて、存在の根源的な構造を捉えようとする試みである。

西田の「場所」の概念も重要である。これは単なる物理的空間ではなく、あらゆる存在の基盤となる「絶対無」を指している。この考えは、フッサールの「生活世界」の概念とも響き合いながら、より根源的な存在の場を指し示している。例えば、意識の働きそのものが成立する場所、あるいは主観と客観の区別が生まれる以前の根源的な場所を意味している。

西田はまた、知覚と認識の問題についても独自の考察を展開した。フッサールの現象学的方法を参考にしながら、物事がどのように私たちに現れるのか、その過程で生じる先入観やバイアスについても深く探求した。この探求は、単なる認識論的な分析を超えて、存在論的な深みを持つものとなっている。

「自覚」と「直観」についての西田の考察も注目に値する。自覚とは単なる自己認識ではなく、世界との根源的な一致を意味している。この考えは、フッサールの志向性の概念を更に深化させたものと言える。

意識の流れと誤謬

先日、賭けについてnoteしたが、
その中で、ギャンブラーの誤謬について少し触れた、
ここで意識の流れと人間の認知の関係性についてもnoteしておこう。

ウィリアム・ジェイムズが提唱した「意識の流れ」という概念は、人間の意識の本質的な性質を捉えようとした重要な洞察である。意識は静的な状態ではなく、絶えず変化し続ける動的なプロセスとして存在する。この流動的な性質こそが、人間の意識そのものである同時にそれは私たちの認識や判断に特有の誤謬を生み出す源泉ともなっている。ゆえに人間らしさの本質的な特徴の一つと言える。この意識の流れが「ギャンブラーの誤謬」のような認知バイアスを生み出す構造的な要因となっている点である。ギャンブラーの誤謬とは、過去の事象の発生パターンが将来の確率に影響を与えると誤って判断してしまう現象を指す。例えば、コイントスで連続して表が出た後、次は裏が出やすいと考えてしまうような誤った推論である。

この誤謬が生じる哲学的な背景には、人間の時間意識の特性が深く関わっている。フッサールの時間意識の分析を借りれば、私たちの意識は現在の知覚(現前)だけでなく、過去の把持(過去把持)と未来の予期(未来予持)を含む統一的な流れとして存在している。この時間意識の構造が、過去のパターンから未来を予測しようとする傾向を生み出し、時として統計的な確率の独立性を見失わせる結果となる。

また、この問題は単なる認知バイアスの問題を超えて、人間の存在様式そのものに関わる深い問題を提起している。ハイデガーが指摘したように、人間は常に「既に何かを理解している」存在として世界の中に投げ込まれている。この「既に理解している」という性質が、時として誤った理解のパターンを生み出し、それが固定化されてしまう可能性を持っている。

このような誤謬は、実は人間の理解の仕方に本質的に備わっている特徴であり、完全に排除することは不可能かもしれない。しかし、これを単なる欠陥として捉えるのではなく、人間の認識の本質的な特徴として理解することで、より深い自己理解へと至る可能性が開かれる。

実際、このような誤謬を完全に克服することよりも重要なのは、それを自覚的に理解し、批判的に検討する姿勢を持つことだろう。これは、古代ギリシャ以来の「知恵を愛する」という哲学の本来的な態度とも合致する。自らの認識の限界を知り、それを超えようとする不断の努力こそが、より深い真理への道を開くのである。

このように、意識の流れと認知バイアスの問題は、単なる心理学的な現象を超えて、人間存在の本質に関わる哲学的な問題を提起している。それは、私たちが世界をどのように理解し、その中でいかに生きていくべきかという根本的な問いへとつながっているのである。

あとがき

次回はヘビについて書こう。
というのも、まえがきで引用した記事にあるとおり、
鏡開きのかがみとは実はヘビのことなのである。
というのも、日本の伝統文化において、「鏡」という言葉の語源には、古来より崇拝されてきたヘビとの深い関連が存在する。古語において「カガチ」や「ハハ」と呼ばれたヘビは、その輝く目が鏡のような光沢を放つことから、「カガミ」という言葉の起源となったと考えられている。この説は、「かが(影)」と「み(見)」という語源説とも密接に結びついており、ヘビの持つ神秘的な視覚的特性が言葉の成り立ちに影響を与えたと解釈できる。

さらに興味深いことに、古代日本においてヘビは単なる生き物以上の存在であった。豊穣や降雨をもたらす神として広く信仰され、その姿は様々な文化的象徴となって今日まで伝わっている。特に、ヘビの澄んだ瞳は「お見通し」の象徴として畏れられ、その神秘的な力は鏡の持つ超自然的な性質と重なり合う。この観点から、鏡は単なる映る道具ではなく、神聖な力を宿す神器として扱われてきた背景が理解できる。

鏡餅においても、このヘビとの関連性は顕著である。二段重ねの餅の形状は、トグロを巻くヘビの姿を表現したものとされ、「蛇の目紋」という呼び名にもその名残が見られる。年末年始の伝統行事である鏡開きも、このような文化的背景を持つ儀式として捉えることができ、その行為には古代からの信仰が色濃く反映されている。

このように、「鏡」という言葉の成り立ちには、日本の古代信仰におけるヘビへの畏敬の念が深く刻み込まれている。それは単なる語源の問題を超えて、日本人の精神文化や世界観を形作る重要な要素となっているのである。現代においても、この伝統は鏡餅や鏡開きといった形で脈々と受け継がれ、私たちの生活に深い意味を与え続けているのである。
今年はヘビ年なので、ちょうどいいと思ったが、筆力が足らず
そこまで至らなかったので、ここに少し記した。

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