朗読の日
太宰の遺書は体をなしておらぬ。メチャメチャに泥酔していたのである。サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。
坂口安吾は上記のように太宰の自殺を書いている。
文章中に出てくるサッチャンについて、太宰は作品は残していないので
作品の中で情死の相手を探しても見つからない。だから、ロクでもないバカ女だと安吾は断じている。そして安吾は加えてインテリほどバカ女が救いになることもある、つまりは惚れてもいない女と情死したというのだ。
●さて、今日は朗読の日である。日本朗読文化協会が制定した。
かつて北村透谷のゴシックを思わせるようなゴツゴツとした文体のリズムがよいものが、朗読にふさわしいのではないかなどとおもってみた。
児童文学の読み聞かせでは、私なぞ居眠りをこいてしまうかもしれぬ。
そんなことを思いつつ、私の読書を振り返り見ると、やはり読書は秘め事がふさわしく、朗読なんてしようもんなら何かが剥がれおちてしまうのではないかと危惧してしまうのである。
折しも梅雨の雨が深く色づいた緑に降りかかり、靄の中から土臭い匂いを漂わせている。日常の種々(くさぐさ)がその中で陽炎のように踊るが、濃い緑と相まってそれも遠くの山々の影に消え去るように思えるのである。
ならば、いっそのこと漢文調を通り越して、漢詩を山にでもこもって朗読して浸ってみるほうがいいのかもしれない。
朗読に対しなんかしらの抵抗が自分の中にあるのはなぜなのだろうか。
自分の滑舌に問題があるからなのか、文学そのものに対する晩稲であることの後ろめたさなのか。。。
●安吾も太宰も無頼派といわれる
無頼派とは、フランスで言うとデガダンというらしいが、少し違うような気もしている。
Les écrivains buraiha sont souvent appelés « décadents » en Occident en raison du style de vie décadent qu'ils mènent, du temps qu'ils passent dans les bars, de leur usage de stupéfiants, et de leurs fréquentes relations sexuelles. Un bon exemple en est Ango Sakaguchi, qui choque le public japonais par la publication d'un essai intitulé Discours sur la décadence (堕落論, darakuron?). Selon un critique, cela « a permis au peuple japonais, en particulier la jeunesse du Japon, de recouvrer son estime de soi et de commencer à vivre dans la période d'après-guerre ».
無頼派を評するとき、やはり戦後という時代背景は外せないようだ。その時代を経験していない限りはついていけない。安吾の「堕落論」は大学生のときに読んだ。たしかに痛快な書きっぷりである。しかし、戦後の若者が鼓舞されるのはあまりに幼いのではないかと思ってしまう。それは時代が共感できてきないのである。
太宰の死ぬっぷりを散々けなした半年後、安吾は自らが鬱病になり、生涯を閉じるまで薬と酒漬けの日々が続く。
人生に勝ちなんかない、ただ負けないんだ、そのために常に戦っているんだと勇ましく書いた安吾、、、
太宰は死ぬことにこだわり、安吾は生きることにこだわった。だがその生き様はどうなんだろうか。こだわったあげくの死にっぷりが酒で生き様が酒ならどこに戦いがあるっていうのか・・・私にとって、無頼派は酒の匂いが漂うのみで、文芸の匂いがしてこないのである。彼らなりの濃い人生だったかもしれないが、濃薄は測りがない。やはり残した成果物である作品とその影響しか見ないほうが良いのかもしれない。
私は太宰の読み手としてはやはり役不足である。中学生は啄木、高校生は太宰を読んで、あとの人生でそれらを開くことないようにするのが、まっとうなぐらいに思っているのだ。ただ、今日は箱にかけた鍵を外して、そっとページをめくってみようと思う。そして、死に様、生き様にある種々(くさぐさ)に思いを馳せてみよう。
なぜなら今日は桜桃忌、太宰が自殺した日そしてくしくも誕生日である。
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