文鳥の日
まえがき
今日は文鳥の日、
↑は文鳥について書いてはいるものの、亀戸にある鷽替えに鳥がらみで
無理やり結びつけたりしているので、もはや羊頭狗肉みたいになっちゃっている。後編はちゃんと夏目漱石の文鳥について書いているが、バカパとボンノバについて書いている。この挿入が良かったらしく自分のnoteにしてはアクセス数がよかった。
さて、今日は上記のnoteに宿題の曲亭馬琴について書いてみよう
曲亭馬琴と渥美赫洲
曲亭馬琴は江戸後期の戯作者で「南総里見八犬伝」が代表作である。
渥美赫洲はというと、馬琴の三女くわの夫である。絵師であった。
馬琴は大の愛鳥家として知られていて、鳥好きが高じて「禽鏡」という鳥の図鑑を制作した。なんと全6巻からなる。
図鑑というくらいだから、絵が挿入されているのだが、その挿絵を書いたのが渥美赫洲というわけである。この挿絵はかなり緻密である。そして255種類306点もの挿絵が挿入されているビジュアルブックになっていて、
学術的にも価値があるものになっている。
実は、レンカク(名前すらきいたことがないが)という日本にいない鳥まで載っている。
馬琴は、優れた飼育者であり、珍鳥を松前老侯から賜るとそれを8年も書い続けた。これはちょっとした腕前というかセンスの持ち主であった。実際、カナリアを含め多くの種類の鳥を飼育していたという、さらに飼育の記録も残しているのである。
本朝ピクチャレスク
文学と視覚文化の関係性は、実に深遠な歴史的地層を形成している。しかし、近代以降の言語中心主義―それは啓蒙主義的な理性信仰と不可分であった―によって、この豊穣な関係性は意図的に等閑視されてきた。たとえば江戸期の黄表紙という形式を考えてみよう。そこでは絵と文字が不可分の統一体を形成していた。馬琴と北斎の協働に見られるように、作者は下絵を描き、絵師はそれを解釈して挿絵を制作するという創造的な往還関係が存在していたのである。しかし、近代国文学の制度的研究は、この視覚的要素を捨象し、もっぱら文字テクストのみを分析対象としてきた。これは実に奇妙な還元主義であり、まさにマンガから吹き出しだけを抽出して読解しようとする暴力的な試みに等しい。西洋中世の写本文化に目を転じれば、イルミネーションと呼ばれる彩色挿絵が、テクストの理解を「照らし出す」という本質的な機能を担っていた。これは単なる装飾ではない。文字テクストと視覚イメージの相補的な関係性こそが、中世的な「読むこと」の本質だったのである。18世紀以降、印刷技術の発達とともに、本における視覚的要素は「イラストレーション」として再定義される。しかし、これは決して新しい発明ではなく、むしろ文学と視覚の根源的な関係性の近代的な再編成として理解すべきだろう。20世紀に入ると、映画やテレビといった新たな視覚メディアの台頭により、文学の存在様式そのものが変容を迫られる。特に注目すべきは、サイレント映画からトーキーへの移行期における作家たちの文体の変容である。彼らは否応なく、新しい視聴覚的想像力との対峙を強いられたのだ。このように、文学はつねにメディアとの密接な関係性の中で展開してきた。近年になってようやく、文学それ自体が一種の視覚メディアであったという認識が学術的にも市民権を得つつある。これは単なる学問的パラダイムの転換にとどまらず、文学における新たな創造的可能性の開拓を示唆している。我々は今、文字と画像が再び融合する時代の只中にいるのだ。
ピクチャレスクとは
ピクチャレスクは、美学として、文学的想像力と視覚的経験の注目すべき融合を表している。この融合は、テキストと画像が絡み合う空間を生み出し、読者や観察者に豊かで複雑な感覚的体験をもたらすのである。
ピクチャレスク文学では、描写は単なる現実の忠実な再現ではなく、読者の想像力を刺激する生き生きとした絵画のようなものである。作家は言葉で絵を描き、単なる描写を超えた心象風景を創造する。このアプローチは、読者を共同創作者として招き、自身の想像力でシーンを補完するよう促すのだ。
同様に、造形芸術におけるピクチャレスクの視覚的体験は、自然の単なる複製ではなく、感情や文学的連想を喚起する解釈である。例えば、ピクチャレスクな風景画は、物語や伝説、詩を想起させ、視覚的体験に物語的な次元を加える。
この融合は、視覚が文学を、文学が視覚を豊かにするユニークな相乗効果を生む。作家は絵画的技法から着想を得て、テキストに光、質感、構図の効果を創出し、一方で視覚芸術家は作品に物語的、象徴的要素を取り入れる。こうしてピクチャレスクは芸術の出会いの場となり、文学的想像力と視覚的経験が互いに補完し合い、豊かになり、目と心の両方を魅了する総合的な美的体験を提供するのだ。
言葉による世界の再構築という営為は、実のところ、人間の認識の根源的な様態に深く関わっている。ソシュールが言語論的転回において示したように、言語は単なる記号の体系ではなく、世界を分節し構造化する装置なのだ。
ちょっとこの部分を復習がてら広げてみよう。
文学的想像力の力学
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は、この言語による世界構築の壮大な実験場であった。28年の歳月をかけて織り上げられた物語世界は、単なる虚構の域を超えて、一つの宇宙を形成している。それは西洋中世の大聖堂に比すべき建築的壮大さを持ち、同時に細部における緻密な装飾性を兼ね備えている。
想像力の錬金術
言葉は、18世紀イギリスのピクチャレスク理論が示したような、視覚的経験と文学的想像力の融合を可能にする。ウィリアム・ギルピンが「粗野な自然」に見出した絵画的価値のように、言葉もまた現実を再構成し、新たな美的体験を生み出す力を持つ。
悦楽の個別性
バルトが『テクストの快楽』で論じたように、言語は確かに共同体の所有物であるが、そこから生まれる悦楽は徹底的に個人的なものだ。これは中世の写本文化における「イルミネーション」が、テクストの理解を個々の読者に向けて「照らし出した」のと同様の機制を持つ。
圧縮と展開の弁証法
現実世界を言語という離散的構造に圧縮し、再び展開するという営みは、ベンヤミンの言う「アウラ」の消失と再生に通じるものがある。それは同時に、マラルメが『骰子一擲』で試みた、空白をも含む総体としての詩的空間の創造にも重なる。
沈黙の詩学
ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の末尾で示した「語りえぬもの」への沈黙は、実は最も雄弁な表現となりうる。それは能における「間」のように、存在の深みを照らし出す闇となる。
閉じられた楽園
テクストの中に身を置くという行為は、ガストン・バシュラールが『空間の詩学』で語った「家」の原初的な安全性を想起させる。それは現実からの逃避ではなく、むしろ世界との新たな出会いのための準備室となる。
このように、言葉による世界の再構築は、単なる情報伝達を超えて、存在論的な深度を持つ営みなのである。それは近代の言語中心主義を超えて、より豊かな世界了解の可能性を示唆している。
あとがき
ちょっと風呂敷を広げたところで、もっと大風呂敷を広げると
私には漠然とではあるが、量子力学と文学をつなげてみたいと思っている。
が、それはおそらく長大すぎて一人では無理だ。
ただ、試みは続けたい。気をつけなければならないのは、スピな人のような論理的逸脱があってはならない。 となるとさらに無理かもしれない
がしかし、過去の流れに従ってこれからも歴史が流れていくなら、
テクストの快楽はますます進んでいく、私の考えていることなど、すでに天才の脳内ではなされていっている。馬琴がピクチャレスクを実現したようにである。そこにアンテナを張っていたいのである。