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マレビトについて
まえがき
上記のnoteの内容は、グミというよりも、折口信夫の命日について多く触れている。
今日はその付け足しの記事である
折口信夫について
実に多岐に渡って研究した人である
国文学、民俗学をはじめ、芸能学、言語学など幅広い分野で研究を行い、独自の学問体系を構築した。古代から現代までの日本の心の伝承をとらえようとして、民俗学の手法を国文学に導入したユニークな業績をもつ。
また、釈迢空の筆名で歌人・詩人として活動し、独自の歌風を確立した人でもある。『古代感愛集』などの詩集を発表し、学問と文学の融合を図った。
マレビトについて
マレビトは、折口信夫が唱えた重要な概念で、日本の古代信仰や文化を理解する上で大事な要素である。
定義:
・時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在
・常世の国から定期的訪れる祖霊や神
・外部からの来訪者(異人)を神格化した存在
特徴:
主に春のはじめに定期的に訪れると考えられていた
役割は人々を祝福し幸福をもたらす=農作物の豊穣祈願
翁、媼として想像され、
ときに、悪鬼・羅刹などの姿で表現される地方もある
まれびとは、祭場で歓待を受け
後に旅人や遊行者もまれびととして扱われた
影響:
おもてなしの起源とされる
盆行事など仏教と融合して深い関係になる
貴種流離譚など物語の信仰母系になった
神格化された来訪者として、神聖に扱われ、丁重にもてなされた。
また、マレビトをもてなす行為がイベントとなり、華道、茶道、音楽、舞踊などの芸能が発展した。
マレビトを迎える空間づくり、生け花や掛け軸、坪庭、玄関の誂えなど、空間をまれびと仕様に仕立てることが文化となった。
松岡正剛は、山の神の音連れとして、古代からある日本人の自然観に注目していて、季節感は山に住む神のエネルギーと結びついて考えられていたことを花鳥風月の科学という書物にまとめている。
まれびと殺し
松岡正剛がいうように、山のエネルギーを取り込みたいことから
山の神の目に届くように家に目印をつけたりしたことが正月に門松を飾るという行為につながってくる。
山の神はやがて(秋には)山へ帰っていく、このことが循環という概念や季節という概念につながるのだが、
歓待のあとに、儀礼的に殺害、または追放するという行為も出てくる。
目的は神の力を共同体に取り込み、豊穣や幸福をもたらす力を確実に受取り、また神のエネルギーが共同体で放電して失われないように、衰えないうちに送り返すという儀礼に結びつくいわゆる追儺式だ。
たとえば秋田県の「なまはげ」は怖い仮面をつけた来訪者を最後は追い払うし、節分の豆まきもこの名残といえよう。
ここで、次の欲望として、このエネルギーを囲い込みたい(エンクロージャー)と考えた人も出てくる。なので、マレビトを”殺す”のだ。もっとも、これは儀礼的、象徴的な意味である。無化することで神との距離が縮まると考えたのかもしれない。
が、ちょっとわかりにくい・・・
小松和彦は、異人論という観点で、もっと生々しくとらえている。
それは象徴的ではない殺しである。共同体に内包される異人への恐怖や嫌悪などの現れが殺意となって生じる。小松は「猿聟入」などの昔ばなしを分析して、その構造が外部者に対する反発や排除の意識を正当化するように組み立てられていると指摘する。
小松は、おもてなしなどの歓待も、(いずれは殺害することになる)罪の意識を和らげるために行われる。そもそもマレビトは異人で、殺したあとに神格化されたと考えるほうがわかりやすい。
日本の民俗社会に潜む「他者」に対する複雑な感情を明らかにし、それが文化や社会構造にどのように影響を与えてきたかを示している点が、彼の研究の真骨頂である。
ドラえもんはマレビトか
まえがきで引用した記事では、今日はドラえもんの誕生日であるということで触れている
ところで、ドラえもんはマレビトかどうかということにも触れていて
マレビトではないとしている。
ここではきちんと整理しておこう
類似点:
・他界からの訪問: 未来から来ている
・特別な力: 未来の科学技術を持っている
・祝福と幸福: のび太を助け幸せをもたら(そうとしている)
相違点:
・共に暮らしてしまっている (長期過ぎる滞在)
・共同体とドラえもんの関係でなく のび太との個人的な関係が濃すぎる
・神格化の欠如
類似点はあるものの、相違点が多くあり、マレビトとはいえないともう一度結論づけておこう。