シャルル・ガルニエ
まえがき
今日はお見合いの日だが、昨日が縁結びの日なので、
別の話題ということなのかシャルル・ガルニエの誕生日であることから
それについて↓のnoteでは書いている
文化的にネオバロックだの、ロココだのは知っていたが、建築様式としては不勉強なので、その部分から書いて、ガルニエについて再認識しておく。
建築様式
ガルニエの話をする前に、16世紀から19世紀の建築様式について振り返っておこう。概観はバロックからロココ、ロココから新古典主義、新古典主義からネオ・バロックという流れになっている。
まず、ブルネレスキのフィレンツェ大聖堂のドームやパラーディオのヴィッラ・ロトンダに代表されるルネサンス建築が有していた整然たる秩序、完璧なる均整美、そして理性的なる造形美に対し、16世紀末より一大変革が起こることとなった。これぞバロック様式の誕生である。この変革の背景には、カトリック教会の対抗宗教改革という重大なる歴史的出来事が存在した。マルティン・ルターに端を発するプロテスタントの台頭に対抗せんがため、カトリック教会は信徒の感情に直接訴求する、より劇的にして感覚的なる表現を求めたのである。
ローマのサン・ピエトロ大聖堂において、ミケランジェロの設計の厳格なる中央ドームにベルニーニの付加せる劇的な列柱廊が、このバロック様式の本質を如実に物語っている。曲線の多用、豊かなる装飾、そして光と影の劇的なる対比は、信徒の魂を震撼せしめんとする意図の表れに他ならない。
バロック様式は、やがて絶対王政の時代に入り、さらに壮大にして豪奢なる様式として発展を遂げることとなった。殊にルイ14世時代のフランスにおいては、ベルサイユ宮殿の鏡の間や、壮麗なる庭園に見られるように、王権の威光を顕示するための建築表現として、その極致に達したのである。シャルル・ル・ブランの装飾プログラムは、太陽王の栄光を建築空間全体で表現せんとする壮大なる試みであった。
ルイ14世の崩御後、社会は大きく変容を遂げることとなる。重厚にして威圧的なるバロックより、より軽やかにして優美なるロココ様式への転換が始まったのである。パリのオテル・スービーズに見られる優雅なる室内装飾や、ポツダムのサンスーシ宮殿が示す親密なる空間構成は、この様式変化の好例と言えよう。これは単なる様式の変遷に留まらず、社会の価値観が公的なるものより私的なるものへと移行していった証左でもある。マダム・ポンパドゥールに代表されるサロン文化の隆盛とともに、建築もまた親密にして快適なる空間を重んずるに至ったのである。
18世紀後半に至り、このロココの過度なる装飾性と享楽的性格に対する批判が高まりを見せる。ヴォルテールやルソーらの啓蒙思想の影響下において、より理性的にして節度ある表現が希求されるようになり、それは新古典主義の興隆へと繋がることとなった。ジャック・アンジュ・ガブリエルのプラス・ド・ラ・コンコルドや、カール・ゴットハルト・ランガンスのブランデンブルク門に見られるが如き、古代ギリシャ・ローマへの回帰を理想とする新古典主義は、フランス革命後の時代精神とも合致し、19世紀前半に至るまで絶大なる影響力を保持し続けたのである。
そして19世紀、殊にその後半において、注目すべき現象が生起する。かつてのバロック様式が、新たなる文脈において再解釈されるに至ったのである。これぞネオバロック様式と称されるものである。パリ・オペラ座を設計したシャルル・ガルニエの作品に見られるように、帝国主義の時代にあって、列強各国は自国の国力と文化的優越性を顕示するための建築表現を必要としていた。その要請に応えんとして、バロック様式の有する豪奢さと威厳が再評価されるに至ったのである。
このように、建築様式の変遷は、その時代の社会的・政治的・文化的要請と密接不可分の関係にあり、様式の変化は、単なる美的嗜好の変遷に留まらず、社会の価値観の変容を如実に反映するものなのである。ベルニーニの聖テレジアの法悦やボロミーニのサン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネの曲面構成、あるいはネオバロック様式におけるウィーン国立歌劇場の壮麗なる外観に至るまで、各時代の建築は、その時代の精神を雄弁に物語っているのである。
シャルル・ガルニエ
ガルニエという建築家は、鍛冶職人の父とレース編みの母という労働階級の出身である。しかしガルニエの才能は若くして開花し、エコール・デ・ボザールで建築を学ぶう機会をえて、23歳という若さでローマ大賞を受賞する。
最も注目すべきなのは、1860年にナポレオン3世が開催したパリ・オペラ座の建築コンペで35歳で見事選出された。
ガルニエの優れた点は時代の要請を的確に読みとき、これを建築として具現化する能力である。概観は石造りに見えながら、実際には鉄骨構造を採用することで 55m☓55mという驚異的な大空間を実現した。まさに伝統と革新の融合である
注目したいのは、ガルニエのネオ・バロックに対する解釈だ。単にバロックを模倣するだけではなく、19世紀という時代に即した再解釈を行ったのである。バロックの持つ劇的な空間構成を継承しつつ、整然とした秩序を与え、さらに当時最新の建築技術を組み込んで、新しい建築表現を生み出した。
このオペラ座にしても、建築における総合芸術としての性格をもつ、概観の彫刻、内部の装飾、大階段(グランド・スタリエ)の空間構成、そして機能的な導線計画まで、すべてが有機的に結合していて、特に大階段周りの空間構成は社交の場として機能するように考慮した設計である。
カフェ・ド・ラペの設計もガルニエの才能が遺憾なく発揮されている。オペラ座のアネックス的な建物であるが独自の魅力をもつ空間として創出されている。
このように、ガルニエは19世紀後半のパリという都市の変容期において新しい時代の建築のあり方に方向づけをした建築家だ。
さて、ガルニエはまさにナポレオン3世の期待に応え、国家の威信ともいえるオペラ座を設計したわけであるが、そもそも国家の威信をかけた建築をしなければいけなかった理由がある。それは、ナポレオン3世がクーデターをして権力を掌握した経緯があり、統治の正当性を示す必要があったことと、
伯父であるナポレオン1世の威光を継承しつつ独自の存在感を示すこともまた必要であった。イギリスとの産業競争に遅れをとっていたフランスの近代化を対外的に示す必要もあるということであった。
実は、バロックのときもそれと似たような話がある。
バロックを推進したのはカトリック教会であるが、当時沸き起こる宗教改革への対抗措置としてであったのだ。教会建築を通じて信者の感情に直接訴えかけるような劇的な空間が必要であったわけだ。ベルサイユ宮殿は王権の威信を示すために豪華絢爛な建築様式を必要とした。文化的な影響力を誇示しなければならない事情もあったわけである。それとともに、植民地からの富を背景とした贅沢な装飾の追求もまたあったわけである。
この考え方は、ロココで否定される。国や教会という重圧から逃れて威信を示すような大掛かりなものでなく繊細で優美な文化となった。
こういった風潮は実は、建築だけではなく、美術などにも現れてくる。
そのあたりは別にnoteしようと思う。
さて、話をネオ・バロックに戻すと、バロックでは、教会の組織改革がされ、信徒の教育にも力を入れていたわけである。そしてネオ・バロックでも似たような事情で、建築様式の教育カリキュラムに組み入れられたのだ。ガルニエが学んだエコール・デ・ボザールはまさにそのままであったわけだ。
建築の力
建築物が持つ力とは、歴史的価値、文化的影響力、技術革新力、都市形成力などであるが、鈴木博之の建築の7つの力を挙げている
すなわち、連想の力、数の力、ゴシックの力、細部の力、模倣の力、地霊の力、過去の力である。
オペラ座は、正面ファッサードはまるで舞台の幕が開くような期待感が演出され、内部に入るとグランド・スタリエを中心とした空間構成になっておりまさに劇場そのものである。観客は、階段を上りながら自らもパフォーマンスの一部となるような感じで、連想の力が働く。
55m☓55mという大空間はまさに当時の技術力の限界に挑戦したもので、物理的な寸法だけではない数の力が働く。
概観は石造りでも実は鉄骨構造を採用したことについてはゴシックが持っていた構造と表現の二重性を19世紀の技術で再解釈したものである。
オペラ座の細部は驚くべき緻密さで設計されていて装飾も単なる付加物ではなく空間全体の構成要素として機能するという細部の力が働いている。
細部まで建設のコンセプトが貫かれているのである。
バロック建設の大掛かりな部分は模倣しつつ、鉄骨の技術を取り入れた新しい表現をしていることは模倣の創造的側面を示している。
実はオペラ座はオスマンのパリ改造計画の中で生まれたのだ。放射状に伸びる街路の結節点という立地にあって、まさに都市の記憶を形成する重要な場所で、この場所の持つ力をしっかりと受け止める地霊の力を活かしてもいるといっていい。過去の力として19世紀の建造物があり、年々ここでオペラが演じられてきて、さらに今に至るまで、そしてこれからも劇場として、また、観光の目的地として活躍し続けている。そして19世紀という時代の記憶もまた伝えてもいるのである。
ネオ・バロック
ネオ・バロックの建設様式ではほかに、ガルニエの手掛けたモンテカルロ・カジノがある。そのほか、ブリュッセルの高等裁判所、ベルリンの帝国議事堂、、、本朝では、迎賓館の赤坂離宮がそうである。これは片山東熊により設計された。法務省旧本館も実はネオバロックである。そして日本銀行本店もそうである。
あとがき
建築家を何人か知っているが、なんというかとてもシステマチックな人が多いいという印象がある。細部にまで思考を行き渡らせ、きめ細かく、またそれを楽しそうにやっているという印象である。私はとてもそうなれないが、見習うところは多く、とくに仕事に役立ちそうである。
次回はこの路線で鈴木博之の本も読み直してみることとしよう。