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【本要約】弱者の兵法 折られてしまいそうな君たちへの遺言【シーマン✖︎ホリエモン】
お疲れ様です。
英知 契(えいちけい)です。
久々に、本要約のお時間がやってまいりました。
この記事を公開したのは2024年の12月なのですが、最初に執筆に取り掛かったのは1ヶ月前(11月)です。
いろいろあって、今日この日まで延ばしてしまいましたことをお詫び申し上げます。。。🙇
突然ですが、読者の皆さんに質問です。
皆さんは、自分のことを「強者」だと思いますか?それとも「弱者」だと思いますか?
本の要約かと思いきや、また突然質問ぶっかけられたぞ。
なんのことやねん。
質問の意図がわからんわ。
色んな声が画面の向こうから聞こえてきますが、一旦私自身の、この問いへの答えを共有しておきます。
私は、自分のことを「弱者」、いやむしろ「圧倒的弱者」と思い込んでいます。
他人からもよく言われます。
「英知契さんって、結構ポジティブなのに時々とんでもないネガティブ発言が出てきますよね!」
。。。はい。私が一番よくわかっています。
でも、私は思うわけです。
「弱者」の自覚があるからこそ、「やらなきゃ」と自分を奮い立たすことができる。
「臆病者」だからこそ、目前の課題に必要以上に警戒することができる。
と。
実際、過酷だった高校の寮生活やオールイングリッシュの大学生活を乗り越えられたのも、「弱者」の自覚、「臆病者」の自覚があったからだと自負しています。
もしあの時、天狗になってはしゃいでいたら、当時の友人知人が、クラスメイトが、そしてあらゆる運命までもが、私のグングン伸びた天狗鼻をスパッとへし折っていたに違いありません。
そして、そんな「弱者」マインドを持ってこの世界を「強かに」生きていた私が書店で手に取ってみた本が、コチラ。
もう、タイトルからして完全に私に読ませるための本じゃん。
と、著者の名前も内容も全く見ないまま、勢いそのままに購入して書店を去っていきました。
そして、小さい頃に買ってもらったゲームをその日にすぐ遊んでエンディング画面まで出してしまう子供のように、買ったその日に勢いそのままに読破。
「よっしゃnoteに感想まとめるか〜」と思ったら1ヶ月が経ってしまった。
私が本当に強者か弱者かどうかは皆さんにジャッジを任せるとして、どうやら私が先延ばし弱者であることは確定してしまったわけです。
そして、そんな先延ばし弱者がお届けする今回の本要約、いってみましょう。
こんな人におすすめ!
・強者か弱者で言うと「弱者」じゃね?と言う自覚がある人
・なんとなく「上手くいっていない」自覚がある人
・人生をひっくり返す「起死回生の一手」みたいな言葉に敏感な人
・正攻法ではない攻略法に興味がある人
・「奇策」に関心がある人(キングダムの桓騎将軍など)
・ホリエモンさんのファン
・伝説のゲーム「シーマン」で遊んだことがある人
・↑について、遊んだことはなくても、名前くらいは聞いたことはある人・英知契(この記事の筆者)
1:フィクションを変える
いきなり、「フィクション」と言う言葉が出てきたので、「この本の著者、只者ではないな」と思ったのですが、いざ表紙を見返してみると
著者:堀江貴文(ホリエモン)、斎藤由多加(「シーマン」開発者)
※「シーマン」:1999年に発売された人面魚の育成ゲーム。会話型のコミュニケーションゲームの土台を築き、当時大きな社会現象になった。
。。やはり、只者ではなかった。
この本によると、現実世界で勝てない、自分が「弱者」である、と思い込んでしまう原因は、世間に蔓延る「フィクション」によって、強者と弱者が作られてしまっている、と述べられています。
とはいえ、この文だけだとまだ怪文書っぽいので自分なりに噛み砕いてみると、「フィクション」と言うのは概念やカルチャーなどを指していて、ある一定の「フィクション」の尺度によって「強者」と「弱者」が発生してしまっている、と言うとわかりやすいでしょうか。
本の中では、「日本」と言う国家、カルチャーでさえも「フィクション」と言及されています。
なんでも、「日本」という「フィクション」には、「異能を排除する」文化と「序列崇拝」の文化があり、少しでも他人と違うところや悪目立ちするところがあると、「日本」では攻撃対象になってしまうと言うのです。
さすが、「出る杭は打たれる」と言うことわざが生まれた国は違いますね。
辛い話、私も中学時代、出身の小学校が周りの大多数(とは言っても8割)と違うだけで外国人扱いを受けたり、デタラメな中国語・韓国語をクラスメイトに吐かれて「非国民」扱いを受けていたことがあったのでこちらの内容には激しく同意しました。
中学時代の当時の私は、こんな「フィクション」はクソだと思っていたので周りの学校生活や人間関係など全てを捨てて、「大阪の私立高校」と言う新しい「フィクション」に飛び込むことでこの地獄を回避することはとりあえずできたのです。
この中学時代の3年間を、私の中で「栄光ある孤立」と呼んでいます。
ただ、今になって思うのは、あえて「フィクション」から逃げずに「フィクション」を変えていく手段があれば、それを実行していればまた一つ違う未来があったのでは、と思います。
2:現実を「ゲーム」の視点で観る
当たり前ですが、今私たちが生きている世界は「現実」であって、決してそれ以上でもそれ以下でもありません。
しかしながら、現実を「ゲーム」のように捉えて考えてみると、複雑でかつ「弱者」になってしまうこの「現実」をブチ壊してくれるのでは?という気づきを本書は与えています。
どの選択肢を選べば、より高いポイントが得られるか。
どのステージ(場所)を自分の主戦場(仕事場)とすれば、より良い報酬が得られるか。
どのウェポン(自分の得意分野、武器)をメイン武器にすれば、より強いボスキャラ(困難な仕事、他の人が苦手とするが自分が得意な場合も含む)を倒せるか。
こういった「ゲーム的」な思考方法が、「弱者」が生き残っていく上で大切だと本書では述べられています。
そして、私はこの本で述べられている「ゲーム視点」という言葉は、言い方を変えてみると哲学用語のプラグマティズム(実用主義)とかにも通じるものがあるのでは?と、ふと思いました。
※プラグマティズム:物事の真理を「信念や理念」ではなく「行動の結果」「利益」で判断する、と言う考えの哲学で、近代のアメリカ合衆国で特に発達した。例えば、もし皆さんが学校の宿題を解くときに、赤いペンと青いペンが側にあって「どっちがより良いペンか?」と悩んだとします。そんな時に「赤いペンでも青いペンでも、『ちゃんと書けて宿題を終わらせることができる』ペンであれば良い」と考えるのがプラグマティズム的な思考法です。
ここでは「宿題を終わらせる」と言う「行動の結果」にフォーカスして物事の良し悪しを判断しているのがポイントです。
つまり、現実という「フィクション」を「ゲーム視点」で見るということは、「結果」にフォーカスした考え、すなわちプラグマティズム的な考えを実践することであるとも言えるでしょう。
3:敵を知り己を知れば「ゲームチェンジャー」となる
いきなり私の愛読書である孫子の兵法をオマージュしてしまいましたが、ここからはいよいよ実践編です。
私は、記念すべき最初の記事でも口酸っぱく説明しているように、仕事ができる人や自分より格上の存在の所作をマネして学ぶ、すなわち「まねぶ」ことの重要性を訴えてきました。
そして、どうやらその考えは共通らしく、本書でも「弱者」であれば「強者」と呼ばれる人たちがどう戦っているかを知っておけ、と述べられています。
実際に本書で紹介されている人で、現実という「フィクション」を見事に転換された方、すなわち「ゲームチェンジャー」と呼ばれる人が出てきているのですが、ゲームチェンジャーと呼ばれる人たちのやり方は、まさに「強者」そのものです。
上記で述べた「ゲームチェンジャー」の一例を話すと、「ゲーム(フィクションがどうとかではなくガチの方)が大好き」な自分の特徴を武器にして、販売前のゲームのテスターとしてキャリアを詰めていった結果、なんとゲームのテスター派遣会社の社長にまでのし上がってしまう、という嘘のようなサクセスストーリーが紹介されていたのです。
この人の場合は二つの意味で「ゲームチェンジャー」と呼べなくもない雰囲気が漂っていますが、私たちも自分たちの「武器」「得意分野」をどうにかして見つけてこの鬱屈とした「現実」という「フィクション」を変革してまいりましょう。
おわりに
以上、こんな感じでざっと要約してみました。
私自身も社会人3年目でキャリアに大きく迷っていて、「弱者マインド」が悪い方に作用しないように葛藤しながらも毎日何とかして生きているのですが、この本に書いてあった「現実」の「フィクション」を「ゲーム視点」で見ることで、最終的には「ゲームチェンジャー」になれる、という言葉を自分への激励と捉えて頑張っていければと思います。
それでは、みなさん、メリークリスマス。