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【雑談】読んだ本の内容、忘れちゃう!

お疲れ様です。
英知 契(えいち けい)です。

早いもので11月に突入。(これいつも言ってるな)
巷では、木枯らし1号が都心に吹きすさび、秋から冬へと季節が移ろいでいく様を感じざるには得ない今日この頃となりました。

そして実は、つい先日まで旅行に出掛けていました。
大学時代ぶりに、久しぶりの海外だったので緊張はしましたがお陰様で楽しい時間となりました。

この旅行についても、後日どこかでさらっと記事に書いて共有できればと思います。

さて、今回の雑談なのですが、11月3日が「文化の日」と言うことで、私の趣味の一つである「読書」について、ちょっとだけ雑談がてら記事を書いてみようと思います。ネタバレかもしれませんが、「文化」と言う言葉の英訳を今のうちに調べておくといいかもしれませんよ。

内容としては、もうタイトルの通りです。

私、英知契は読んだ本の内容をよく忘れてしまうのです。

せっかく心に残るような小説を読んだとしても、数ヶ月後に友人から
「この前読んでたあの小説、どこが面白かったか教えてよ!」と言われてもしどろもどろになってしまう。

せっかく仕事や私生活のタメになる実用書・ハウツー本を読んだとしても、実務に取り掛かるときにはなかなかその情報を思い出せない。思い出せたとしても、独自の解釈が入りすぎて書籍に本来書いてあった方法とは若干ズレた実践方法をしてしまう。おかげで、本の要約記事を書くときは想像以上にスタミナを使ってしまいます。笑笑

このような経験、私だけでなく、皆様も心当たりある瞬間があると思います。

私の答えは、たった1つです。





「それで、いいんじゃない?」





です。

そもそも、我々人間に「メモリ」は内蔵されてありません。書いてある本や記事の内容を、そっくりそのまま記憶しておけるような、都合の良い媒体は残念ながら持ち合わせていないわけです。

そして、本の内容を「メモリ」で、ただ単に「機械的に記憶する」ことは、果たして「読書」をしていると言える状態なのでしょうか。

当然、われわれ人間には、「メモリ」は内蔵されていません。

しかしながら、我々には「頭脳」があります。
我々は「頭脳」を通して、文章を眺めることで、単に書いてあることを「記憶する」だけでなく、独自の感性や解釈を持って「咀嚼する」ことができるのです。

簡単に言うと、目の前の文章を読んで、それを好きなように味わって、ゴックンと飲み込んでみることで自分だけの「感想」が脳内に生まれて、それを「文章」として書き出すこともできれば「自分の心」に蓄えて人生の肥やしにすることができるし、「行動」に移すこともできる。もちろん、感性も感想も行動も、人類80億人いれば80億通り。

もちろん頭脳はメモリよりも記憶力は弱いし、実際に比較してみるとメモリが100%文章を記憶できるものだと考えると、人間(少なくても私)の脳はせいぜい10%か20%程度のものだと思っています。

しかし、残りの80~90%の「余り」の部分が、その人独自の「感想」「文章」「行動」、すなわち「アウトプット」を形作っているのでは?とふと思うわけです(最近流行りのAIはさておき、、、)。

こうして言語化してみると、われわれ人間が本や文章を読んで、完璧に覚えてはいなくても「咀嚼」して独自の感性や感想や行動を思い描いていくことって中々ステキだとは思いませんか?

何かしらの文章を読んで覚えることにおいて、人間の「頭脳」はどうしても不都合なものですが、「メモリ」に100%記憶して貰うよりも遥かにロマンチックで味のある代物だと思うのです。

私が中学時代愛読していた、近代日本の文豪・太宰治は以下のような言葉を遺しています。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が
残っているものだ
。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。
ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言いたいのは。

ー 太宰治「正義と微笑」

この言葉は、今の私を形作っていると断言しても良いくらい私に影響を与えた言葉で、今でも勉強や仕事、読書に励むときのモチベーションとしています。

読んだ本の内容を覚えて、その内容を実生活に活かすという「結果」にばかり目が行きがちですが、勉強や読書の内容を忘れたとしても、試験勉強や仕事に応用しようとして不合格になったり空回りになったとしても、そこまでに努力した「過程」があなたを裏切ることは決してないでしょう。

某きんに君が「筋肉は裏切らない」と言っているように。
某ロールプレイングゲームでGAMEOVERになって、所持金は失っても「経験値」はそのまま残っているように。

そして、その「過程」の積み重ねは、自分自身を洗礼させ、「自分」と言う名の畑を耕し、より奥の深い人間へと成長させ、我々の人生をより豊かなものにしてくれるはずです

なので、「文章を読んで覚えられない」「本の内容を忘れてしまう」ことで自分を卑下せず、今日も自分をカルチべートしたな、すなわち、自分をより豊かで洗練された人間にアップデートできたな、と、努力した自分自身を褒め称えてあげるべきだと思うわけです。


簡単な雑談で終わらせるつもりでしたが、想像以上に深ーい考察みたいになってしまいましたね。これも私なりの「咀嚼」「耕し」の結果でしょうか。


ちなみに、こぼれ話を一つ。
11月3日は「文化の日」ですが、「文化」の英訳「Culture」はもともと「農地を耕す、農耕を通して心を耕す」と言う意味があり、同じ語源をもつ単語として「Cultivate」、すなわち「カルチベート」があるそうです。

ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言いたいのは。

ー 太宰治「正義と微笑」

それでは、また。

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