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【短歌】「古(いにしえ)は 名家なりき」と...

お疲れ様です。
英知契(えいちけい)です。

今回は、初の創作系の記事ということで、今月ふと詠んでみた短歌を共有してみようと思います。

日頃の仕事や資格試験勉強の息抜きみたいなものです。

あんまりこういうのを人には共有しないので、ぶっきらぼうかもしれませんがお手柔らかに。


「古(いにしえ)は  名家なりき」と 言ふ父の

洗いし墓石(ぼせき)に  陽は堕ちたるかな


【解説】
今年の年初、地元に帰省した際に父と先祖の墓参りに赴きました。
これは、我が家の年末年始の恒例行事です。
ちょうど日時は夕方ごろだったのですが、墓周りの雑草を刈り取っている時、ペットボトルの水で墓石を清めていた父がふと

「うちも昔は名家だったらしい。」

と、突然ぼやき出すのでした。

実は、私の曽祖父は日本がまだ「大日本帝国」と呼ばれていた時代、中国東北部にかつて存在した「満洲国」に住まいを構え、自身は満州か朝鮮の総督府で勤めていたとのこと(日本でいう大蔵省的なポジションだったと聞いています)。

しかし、第二次世界大戦の結果をご存知の方なら説明不要ですが、ソ連の対日電撃参戦により、曽祖父の住まい周辺は大打撃を受けたのでした。

命は助かったものの、鍋一つで日本へ帰還。

そこから、高度経済成長時代に事業を行い実家の経済苦を立て直したそうですが、現実は厳しく晩年は2部屋ほどしかない「小さな一軒家」でその生涯を閉じたとのこと。

そして、その曽祖父の仕事場であり終の住処であった「小さな一軒家」に、現在も私の家族が住んでいます。

その背景を知った上で、再び父の

「うちも昔は名家だったらしい。」

をいう言葉を想起すると、落日が差し掛かった墓地と苔むした墓石も相まってなんとも言えない思いが、込み上げて来るものでした。

「盛者必衰」とも捉えられるし、「因果応報」とも捉えられる。

私の曽祖父は、当時日本の影響下にあった満州や朝鮮で、現地の人々を召使い・下僕のように扱い、横暴かつ厳格な態度で振る舞っていたと伝えられています。

私は実際にその時代のその場所にいなかったので、嘘か真実か、誇張された実話なのかも分かりませんが、「私は、こうは生きたくない。」と強く決心したものです。

3カ国・地域に持ち家があり、まるで欧米列強の植民地の役人かのように振る舞っていた曽祖父も、晩年は小さな一軒家で静かな生涯を閉じた。

皮肉な話ですが、「やってきたことがそのまま返ってきた」のでしょう。

私の尊敬する人の言葉に、

「他人の不幸の上に自分の幸福を築くことはしない」

とあります。

曽祖父は、確かに我が家の全盛期を築きましたが、その裏側には多くの人々の「不幸」と「血」と「涙」があったことを忘れてはなりません。

もちろん、曽祖父も「ソ連の侵略」「経済苦」「日常生活の崩壊」という形で「不幸」を味わってきました。

昨今も不安定な世界情勢で揺れ動いている今日この頃ですが、自分がへこたれてしまっては元も子もありません。

太陽のような大らかな心で、のびのびと今の人生を生きていく。
それが、今の私にできる最大限のことであり、曽祖父はじめ先祖の方々にできる最大限の弔いでしょう。

心の中で、そう感じた私は父と墓所を後にするのでした。

そして、モヤモヤした思いを、この記事に「言葉」として整理したまでです。

それでは、また次の記事で。


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