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Page 4: 五十肩に見る自分ー身体症状とコンステレーション

1. コンステレーション:身体症状とわたし


今日は、コンステレーションと身体の調子というアプローチで書いてみたいと思います。今一度書きますが(くどくてごめんね)、コンステレーションは、

自分と他の人や物や事柄との関係

を可視化することができるんです。それで、身体の調子も擬人化するような形で、「自分を象徴している何か」として考えることができるんですよ。例えば、「(特定の部位の)痛み」とか名前のついた病名を代理人として置いて、その人のコンステレーションを見てみることができるんです。

深刻な症状を抱える状況にあった人のコンステレーションに、わたしは「薬」の代理人として立ったことがあることを思い出しました(しかし、「薬」はその過程において無関係で、すぐに退場することになりました)。そして数年前、実際にわたしも自分の身に起きた「五十肩」の症状をコンステレーションに置いてみたことがあります。その時のことを少し説明しながら書いてみます。

2. コロナ禍から感じ始めた五十肩の痛み


ちょうどコロナ禍が始まる少し前あたりから少しずつ痛みを感じて、コロナ禍で1日中家族と一緒に過ごす時間が続くようになるのと並行して痛みが酷くなっていきました。そんなタイミングで、友人たちとコンステレーションを置く機会があったので、「自分」と「五十肩」の二人の代理人に立ってもらうことにしました。代理人の様子を見ているすぐに、「五十肩」という症状は、コンステレーションの中で「家」もしくは「自分の生家を背負う重さ」のように見えてくるから不思議です。不思議なのですが、自分の中では、「あ、これ家のことだな」という確信めいた感覚も同時にやってきたので、そのように受け取ることにして、そのコンステレーションを終えました。

わたしの五十肩は、その後1年ほどかけて徐々に回復して痛みも不自由さもなく過ごしていますが、実は、実家であれこれ事件が起き始めると、再び「背負いたいわたし」がムクムクと元気になるんですね。最初はもちろん無意識にそうなっているのですが、この1年ほど決まってそんな時に、ギシッとした鈍い音と共に、肩のあたりに軽い痛みを感じることがあります。まるで、

「ちょっと、また背負えないもの無理して背負おうとしとるよ、自分。」

そんな内側の自分からのアラートのように受け取るようになりました。とは言え、この家の長女であり一人っ子である事実は変わりません。家のためにやらなくてはならないことがゼロになるわけでもありません。でも、このアラートがあると無いとでは大きく違う、と今は思っているんです。

3. 身体症状の象徴しているものは何なのか?という視点

こんな風にして、身体症状のコンステレーションを置くと、

その症状を自分の身体が抱えていることが「何を象徴しているのか」

という見方をコンステレーションは与えてくれる場合が圧倒的に多いです。もちろんその「象徴」は人によって全く違うわけで、例えば、「肩の痛み=家の背負う重さ」といったような公式に当てはめたりして考えることはできません。ですが、これまで身体症状を軸にしたコンステレーションを数々見てきた中で感じるのは、どんな症状も「本来のその人として生きていくための何か」を象徴しているということ。例えば、これも実際に目撃した数多くの例ですが、クライアントが生きづらい環境下にある中で体験している「症状」が、実はクライアント本人を守っている、という様子。「症状」の代理人が、クライアント代理人にやさしく寄り添っている様子。実はこれ、数えきれないほど見てきました。どういうことが一体起きているのでしょうか。

ちょっとCMはさみます!

11月18日から19日にかけて、名古屋市内で2日間のファミリーコンステレーションワークショップを開催いたします!現在、参加者を募集しております。詳細はこちらのページでご確認ください。ぜひご参加ください!お待ちしております!

対面でファミリーコンステレーションが体験していただける機会です!

4. 邪魔になってしまう判断基準


コンステレーションも、ザビエが語る占星術もそうですが、シンボルや象徴を軸に物事を見ていく時に徹底的に邪魔になるのが、

「善悪の判断」

なのです。今の話の流れでいうと、「健康=善で、病気=絶対悪。だから病気は排除するべき。」「生=善で、死=悪。死からは可能な限り遠ざかるべき。」というような考え方は、シンボルや象徴の理解をしようとするときに、大きな妨害、邪魔になります。例えば、「病気=悪」だとしましょう。すると、先に書いたようた、

症状(病気)が本人(クライアント)に寄り添っている(ピッタリとくっついている)

というようなケースは、「悪いことが起きている」という理解にしか繋がりません。ですが、「善悪のラベル」をここでは一旦外して、

症状(病気)が本人(クライアント)に寄り添ってまでして守ろうとしている何かがあるのだとしたら、それは一体何なのか?

という視点を持つことができます。もちろんそれは、その人自身が持ちたければ、の話であり、そのように捉えるべきだと言いたいわけでは全くありません。コンステレーションが、そのような視点を持つ機会となることを今日は書いておきたいと思いました。

多くの人にとって、ファミリーコンステレーションを通して体験することは、わたしたちの大切な信念の多くと矛盾するため、混乱や困惑を生じさせます。コンステレーションは、非常にシンプルな方法で、その人の奥深くにあるものを表面化します。 そして、そのような現実が可視化されたことで、魂に癒しを与えることができる解決策を、愛とともに見つけることができるのです。

No Wave Without Ocean by Bert Hellinger,2008 

わたしには、いつか(と言っていると機会を逃しそうなので計画しなくてはと思っていますが)トレーニングを受けたいと思っているコンステレーションのトレーナーが世界各国に数名います。その中の一人に、Stephan Hausnerさんという方がいます。病気や症状を専門にコンステレーションで扱っている人です。ドイツの方です。Even if it costs me my life(訳:たとえこの命が代償になるとしても)という著書が非常に興味深くて、読んでいます。その中の一節を最後に紹介して終わりますね。最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

一人でも多くの方がコンステレーションに興味を持ってもらえることを願います!

病気、健康、そしてヒーリングという現象の本質を理解しようとする中で、わたしは次第に、ヒーリングがどこで起ころうとも、それは実際には自己治癒なのだという確信に至っている。 そのようなヒーリングの観点に立つと、誰かがわたしたちの助けを求めているとき、どのように救済とヒーリングに寄り添い貢献するのが最善か、という問題と直面することになるのだ。(訳:持田直子)

In attempting to understand the essential nature of illness, health, and the phenomenon of healing, I have gradually come to the conviction that wherever healing occurs, it is actually self-healing. In this view of healing, we are then faced with the question of how best to accompany and contribute to relief and healing when someone is seeking our help.

EVEN IF IT COSTS ME MY LIFE -Systemic Constellations and Serious Illness by Stephan Hausner in 2011

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