ターシャのこと(6)
このnoteのターシャのこと(1)で書いたように、母ターシャは姪の赤ちゃん、つまり曽孫に会いに行き、病院を出る駐車場で転倒し、そのまま姪の入院している反対側の病棟に大腿骨骨折で入院した。顔も打ったので鼻骨か眼窩あたりに(私が細かくは把握していない)ヒビが入り、面会に行くとデビルマンのように酷い顔だった。
まさかねー、転ぶとは思わなかったわー、やーねー。
痛いだろうに脳天気な言葉が返ってきた。
可愛いのよー❤️あたしも曽孫が見れるなんておもわなかったわー。
まだこの頃はたまにそれるものの会話はちゃんとできていた。つながったり、つながらなかったりを繰り返していて、繋がる時はいつもの明るいターシャだった。
もー、やだー、なにやってんのよー、手術したらちゃんとリハビリしてねー。
私もそんな言葉を返したものの、入院中は症状が進まないか気掛かりだった。オペは無事終わり、ターシャはリハビリも頑張っていた。
こうね、こんなふうに手を回したりするんだって。車椅子からはまだ1人で降りられないから看護師さんにちょっと手を貸してもらうのよ。
そんなふうに、面会に行くとよくしゃべった。病院でリハビリしていると、家にいるより人と話す機会があるからか、面会に行くと、ターシャは同室者としゃべり、食堂で隣になる人と喋り、結構リハビリも疲れるのよね、と言いつつ、この時のターシャはまだ目がしっかりしていた。
そしてしばらくして、私は兄からのメールでターシャが反対側の大腿骨も骨折したことを知る。トイレのコールをしてもなかなか看護師さんが来られないので自力で行こうとして転んだと言う。反対側も。。
それはさらにオペ後に動けない時間が増えること、入院生活が長びくこと、=認知症の症状が進む可能性が強いことを示していた。
退院後は老健でリハビリをすることになり、私は仕事帰りに行ける時、老健施設に移ったターシャの面会に行った。遠方から赴く私にとって、夜20時までの面会時間なのはありがたかった。到着すると、大概夕飯の時間か、もしくはその後だった。ターシャは自分で食べる事ができたが、食事を楽しむというより、スプーンを口に運ぶ作業、という印象だった。おいしい?と聞いてもそれには応えず、いつも違う話をしてきた。
孫たちの写真をスマホで見せても、目を細めるものの言葉は出なかった。
おかあさん、私とツーショット撮ろう!
面会時、私はターシャと顔を近づけて写真を撮った。ターシャはその写真を見せると、あらー、あらー、と言うだけだったが、わかってくれたのだろうか。認知症になっても、私のことを誰?と拒絶することがなかったのは救いだった。離れて暮らす私は面会に行きたいけれど、母に忘れられてはいないか怖くて、思うよりあまり頻繁には行けなかった。
老健はずっといる事ができない。認知症の進んだターシャは家で見ることはもはや不可能だった。兄と私は近隣の特養の見学に行き、申し込んで空きを待っていた。思いの外早く連絡が来て、特養入所になったが、面会時間が合わず、予約制だったので、6月にやっと行けることになった。
そして、冒頭で書いたようにその日が、私とターシャが言葉を交わした最後の日になった。
兄ミーシャ曰く、特養でも脳出血で倒れるまで、ターシャはよく食べ、よく喋り、おそらく特養生活に馴染んでそれなりに楽しく過ごしていたのではないかと言う。時折あれを持ってきてとかこれを買ってきてとか電話をかけてくる声もまあまあしっかりしていたし、職員さんが用事があって連絡してきた時、ターシャに電話を代わってくれた時は、おそらく周りの人と話し中だったらしく、何か用?今忙しいのよ、と言われたと言う。
なんともターシャらしい。
施設にはうちに帰りたくて泣き出す人や、脱走を試みる人や、帰れないイライラや寂しさを職員さんや他の入居者さんにあたる人も中にはいる。
ターシャはどうやらそのようなことは一切なく、いい意味で淋しさを忘れる事ができた。セバスチャンのいない日々を長く生きるにはターシャの心を守る唯一の方法だったのかもしれない。
ターシャの棺にはあちらに行く道中で食べるだろうから、と大好きな餡蜜と大きなお饅頭をいれた。一緒に観に行くはずだった地元の桜並木の写真は、本当はターシャの誕生日か母の日に面会して飾ってもらうつもりだった。私はターシャを思い出しながら手紙を書いた。感謝と愛を込めて。面と向かってもっと言葉で言えばよかったのかな。書きながらたくさん涙が溢れた。
ありがとう。おかあさん、ありがとう。手紙と桜の写真とあんこものと一緒にターシャはセバスチャンのところに行った。たぶん行く先々でいろんな人に話しかけながら、ゆっくりゆっくり足をとめながらいくんだろうね。
兄ミーシャがそんなことを言った。
セバスチャンもターシャも植物が好きで、特に植木が好きだった。毎年春と秋には地元の植木市にいき、狭い庭に木を植え、手入れをして育てていた。
セバスチャンは私が家を建てると、自らホームセンターに同行し、あれこれ買い、私の家に植えて行った。ほったらかしの庭にも季節ごとに花が咲き、ターシャがうちに来たときに、綺麗ねー、こんなに大きくなるものなのねー、と言ったのを思い出す。ターシャの作ったパッチワークのラグはボロボロになってしまったけれど、息子の部屋にある。私の手元には幼稚園の頃作ってもらった発表会のドレスとお弁当箱入れのポーチとタオルが残っている。あんこ好きはうちの子たちに隔世遺伝し、私はターシャの好きだった苔に惹かれ、今時々山を登っている。得意料理の、メンチはターシャの味には及ばないが、うちの人気メニューとして受け継がれた。
2人と過ごしたことで私に何かしらが宿り、今の私の日々に生かされているなら、セバスチャンとターシャは私の中にいて、今も一緒に泣いたり笑ったり感動したりしているはずだ。
日々を楽しもう。そうすればきっと2人も楽しいはずだ。
最後まで自分の人生をしっかり生きた両親のように、私もいつか帰るその時までしっかり歩いて行こう。
私の私的な拙くも長い文章を読んでくださった方がいらしたら
心からお礼申し上げます。
貴方の日々がかけがえのない時間で有りますように。
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