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ターシャのこと(5)

発見が早く、梗塞部位と程度が幸いして、ターシャの命に別状はなかった。
延命治療を望まない意思を、病院の問診時に残したのもこの時だった。
左側に痺れが若干残ったようだが、リハビリをし、退院してからは家に戻ってきた。実家のターシャの居住空間は主に2階で、1階からは階段を壁に手をつきながらゆっくりと登れば登れるが、下りはお尻でゆっくり降りることになった。この頃手すりを家の要所要所につけたり、杖を買ったりしたが、ターシャはよく杖を忘れ、手すりもあまりつかまらずにあちこちに捕まって移動していた。まだなんとか歩けてはいたのだが、買い物は週末に兄が車に乗せて同行した。ターシャはこの頃から食べられもしないのに同じようなお菓子を買ったり、どこにきていくのかと兄に言われながらもセーターを買ったりした。
ミーシャ(兄)がね、よくやってくれるのよ。といい、ターシャの保護者はセバスチャンからミーシャに代わった。
元々ターシャは機械に弱く、ATMも使えず、携帯電話ももたない。アナログな昭和の人の中でもとりわけ何でもセバスチャンに頼ってきたので、お母さんは振り込めサギの電話がかかってきても携帯もってないし、振り込めない、とミーシャにからかわれていた。
パソコンなんてもってのほか。ターシャの情報源は新聞とテレビだったが、TVもあまり自分からは見ようとしなくなっていた。そんな生活が続くうち、ターシャはだんだんとぼんやりする時間が増えていった。
淋しさは1番の引き金だったと思う。
脳梗塞からの認知機能の衰えはその頃からゆっくりとはじまっていたのかもしれない。
そんな中、嬉しいニュースがあった。
上の姪が結婚することになったのだ。
ターシャは喜び、セバスチャンの代わりに結婚式に出席し、姪の晴れ姿に感激し、相変わらずよく喋った。
周囲の私たちはターシャが転ばないようにヒヤヒヤしながらも付き添った。
その後、姪が妊娠し、里帰り出産で再び実家に戻った頃、私の元に姪からLINEが入った。

ぴのおばちゃん、おとうさんとおばあちゃんのやりとりがひどいの。おばあちゃんかわいそう。私どうしたらいいの?

兄ミーシャは大層疲れていた。ターシャは姪が嫁ぎ、構う相手がいなくなった今、少しでも話を聞いてほしい。だが、兄は母の日々辻褄の合わない言動や行動に辟易し、出勤前の貴重な時間を奪われるようで、苛立っていたのだと思う。手を上げたわけではないが、病気とはいえ、朝から兄にとって余計なことをしでかすターシャに対し、イライラを募らせていたようだ。もううちではみれない、とこぼしていたが、まだ当時は介護度3。ターシャの地元には特養は空き待ちの人が何百人といた。デイサービスは使っていたが、その準備を兄がしても朝になると全部バッグから中身がだされていたり、夜に起き出してデイに行くつもりで玄関に座っていたこともあったらしい。冷蔵庫に食べ物でないものが入っていたり。台所は危ないのでガスの元栓をしめ、火を使えないようにしていた。なので、ターシャは時折電子レンジで煮物を作るつもりだったのか、食材を水に浸して半生にしてみたり、料理にならない料理をして放置したりした。
私は姪に、病気がさせてることはわかっていても実の親に苛立ちをかんじてる兄の立場も話しつつ、姪の話をきき、今はお腹の子を無事に出産することを考えて、と言って、私もまた実家に顔出してみるね、と伝えた。

そして、姪の赤ちゃんを見に行ったその日、ターシャが自宅で過ごした最後の日になった。

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