ターシャのこと(4)
先生は私と父セバスチャンにレントゲン画像を見せながら病変部位を差していった。セバスチャンはその頃胸の痛みがでてきていたが、まだ自転車に乗れるくらい元気だった。
ここに癌がありますね。そのせいで肺が膨らまずに残った部分だけで呼吸している感じです。何もしなければもって3ヶ月と言う所です。ご高齢ではありますが、お年のわりにお元気ですし、痛みをとる目的で放射線治療をおすすめしますがどうしますか?
この時、セバスチャンには願いがあった。当時高2だった、兄の次女と同い年の私の長男の高校卒業まで生きていたい。そのためなら治療しよう。
覚悟を決めたセバスチャンの病院には私が付き添うことにした。
ターシャはこうと決めたら曲げないセバスチャンのことをよく知っていたので何も言わなかった。
セバスチャンは当初自転車で放射線治療に行った位元気だったが、2回目あたりから私が付き添えるときは同行し、できないときはタクシーで行き来するようになった。食は細り、思うように食事がうけつけなくなっていった。今度はターシャがセバスチャンを気遣い、少しでも食べられそうなものを、と喉越しのよいものや栄養が取れそうなものはないかと試行錯誤しながら食事を作った。放射線治療と同時に痛み止めを飲み始めたセバスチャンは日中もうとうと寝ることが増えた。そんな時、ターシャは背中をさすったりしてセバスチャンを労った。日に日に辛そうになっていくセバスチャンを見ているターシャも辛かったに違いない。少しでも辛くないようにして、少しでも長生きしてほしい。ターシャはそう言っていた。
痛み止めで朦朧とすることが増えたセバスチャンと私が最後にあった時、朝昼晩の薬を分類し、じゃあね、ここに入れとくからね。またくるね。と実家を後にした。その時セバスチャンは引き出しから何やらお札を出して数えていた。今思うと付き添った私に小遣いをあげようとしていたのかもしれない。(父はかつて経理の仕事をしていたことがある。そのせいかも。)もう少しだけ、時間をとって話しておけばよかった。別に小遣いが欲しかったわけじゃないのに、そんなふうに思った私はそそくさと帰ってきてしまった。父のそんな姿を見るのが辛かったこともあった。ターシャはセバスチャンの肩をさすっていた。
セバスチャンは病院よりうちで死にたい、とかつてから言っていた。訪問看護と訪問入浴も頼もうと、ベッドを借りて1週間でターシャの寝る脇で旅立った。
最初に異変に気づいたのもターシャだった。かかりつけ医が駆けつけたがもうセバスチャンが目を開けることはなかった。出勤前の兄ミーシャから連絡をもらって私が実家に行くと、ターシャはいつにも増して小さく見えた。
セバスチャンは最後の最後まで自力でトイレに這っていき、家族での介護が限界に来ていた矢先に大好きなターシャのいる場所で息を引き取った。孫たちの卒業まで、と言っていたのは叶わなかったが、この願いはターシャに託されたのではないかと思う。
夫婦2人で一つだったセバスチャンとターシャ。
家の中のあちこちに、セバスチャンの修理した場所やものがあり、タバコの火で焦がしたあとがあるのを見つけて、ターシャはあちこちでセバスチャンの面影を感じていたと言う。
おじいちゃん、今日こんな事があったよのよ、とかね、毎日話しかけるの。
この写真いっつも笑ってていいでしょう?
遺影のセバスチャンは満遍の笑みを浮かべていて、ターシャの支えになっていた。
さみしいのよ、おじいちゃんがいなくなってね、なんとも言えないさみしさがあるの。
実家は兄夫婦とは同居だが、二世帯住宅で事実日中はターシャ一人きりだった。毎日世話をする子供や孫も自立し、裁縫もさほどしなくなり、友人との旅行もできなくなり、いつもそばにいたセバスチャンはいない。
日常に必要な家事はできたけど、セバスチャン亡き後のターシャの日々は淋しさから抜け出せない辛い日々だったのだろう。
○○とかしてみたら?ここ行ってみる?と促したり誘ったりするが、なかなか腰が上がらない。
ターシャは私が実家に行くと話したいことを一気に吐き出すようにあちこちに話が飛びながらも喋り続けた。新たなことが起きない日常でふとした時にセバスチャンの痕跡を見つけては涙を流していたと言う。
元々話が脱線しやすく、同じことを繰り返すことが多かったターシャだが、次第に周りの話より自分の話を立て続けに話すようになり、ターゲットになった人は時折困惑し、疲れるようになった。
そんな矢先に、当時まだ同居していた姪が出勤前にトイレで倒れているターシャを見つけた。
脳梗塞だった。
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