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EP.004 谷村仰仕 /TAKASHI TANIMURA(教育・広島) 前編/後編

”1975年京都生まれ京都育ち。広島国際大学で建築系学科の教員として勤めたのち呉高専で教育改革に仕事に携わる。2019年に子供が積極的不登校児になったことをきっかけに相方のトコさんと大人も子供も本気で遊ぶ“と独楽舎”を立ち上げ活動中。2022年は積極的不登校の家族向けオンラインサロン“&さんかく”を立ち上げ予定。”

keyword 前編
自己紹介. 京都から広島へ. 建築から教育へ. 新任教員が感じた学生とのコミュニケーションの壁. 面白い大人とつながりたい. フィールドワーク. あ、これだな. 信頼関係と共通体験. 積み重ねのなかで気づいたこと. 学生主体の学び. 自分たちがやりたいことを形にする. 縛りを解く. やってみよう精神. 心を開くこと. 大人と社会の問題. 今だったら学びたい衝動. 自分事の興味. 学びと自分との関係. 勉強は我慢を強いるもの?. 教育はタイムラグを伴って発芽する. プレゼント論. 巨人の左肩に乗る. 学びの本質は気づき. 世界の奥行. 郵便的. プレゼントと呪い. 名作は物語が変化してゆく. 祝福される. 経験値の差. 聴くことは忙しい状態. 待つことの難しさ. 距離の取り方. 休符に音を鳴らす. 待つことの勇気. どこまで信頼できるかの勇気. 音を奏でない勇気を称え合う. 支え合うことで勇気を育てる. 積極的に間をつくる. これからの教育をつくっていく. 後半は「はじめる」ターン

keyword 後編
と独楽舎. 大人も子供も本気で遊ぶ. 0歳から70歳まで. 遊びの中に全ての学びが詰まっている. 学びのアップデート. 学校の息苦しさ. 子供たちから学ぶ. 主体的で対話的な学び. 先生のライフワークって何?. 地域に開く. 異年齢. 賢さと勇気. 弱い方が強いこと. 周りとの関係性によって存在できること. 失敗することを大切にする. 学び合う仲間. エールを贈る. 問いは自分で立てる. 迷える子羊が最高の教育. 招待状. パーティのしつらえ. ギリギリの葛藤. 行きあたりバッチシ. 呼び込む作法. 今ここに集中できているのか. 早く追い付きたいタイムラグ. Present=現在. ギフトとプレゼント. 今. 交換のロジック. ちょっと未来志向. 何で私にこれを?. もしかすると. 祈りを込める. 託された想いとメッセージを紐解く. 共に生きましょう. 喜びと祝福. プレゼントを総じて文化と呼びたい. 届くといいな. サンタクロースの発明. 相方の選び方. 建築って大きくて動かない. 動かないものを如何に振動させるか. 定点に留まることで気づく変化. 振動するなかで許容する思考. 違和感を丁寧に積み重ねること. 勇気を支える美意識. キャリーの予言. バトンを次に託す. 今まさにここで起きている. ピリオドがもしなかったら?. 打つことの勇気. きっと受けとってくれる人が現れてくるはず. 信頼の証. 解釈の自由を与える. その自由はあなたを信頼しています. 建築・社会・教育をつくっていきたい. 今の自分でなくていい、未来の自分に託す潔さ. 喜び・豊かさ・新たな発見. 面白いと信じる勇気. 自分たちでストーリーをつくる.

--miyabi
「今の自分でなくていい。未来の自分に託す。未来の自分がそういうことだったのかと思う時がくる」
この言葉がまさに。今の私たちと未来の私たちへのプレゼントだなと思いました。
--takashi
キャリさん、やる〜!
とはいえ、自分一人で生きているという感覚のままだとなかなかそうは思えないのだけれど、ワチャワチャと仲間たちと混ざりながらともに生きる感覚が宿るとするする〜っと素直に腑に落ちる感じがする不思議。だし〜、そう思えてくると自分の中にも多様な自分がいることに気付けて、一気に仲間が増えた感覚になるのよね〜。
--miyabi
最近、思い描くこうなったらいいなーの未来が壮大すぎて。どうなるものかと無力に思っていましたが。それぞれに素敵な人たちがいて。いろんな人がいるから世の中回ってるんだなーと。

そしたら、そうかそうかと。北極星の話も思い出していて。みんな違うところから、それぞれ仲間とともにできることをこつこつやっているんだ。そんなことをイメージしていったら良さそうって思えてきました。

星のところに何があるかはわからないけど!
--ayako
そうか。「ピリはじ」というキーワードもまた、ひとつの北極星になってくれてますね。半年前には見えてなかった世界が、それぞれの視点の重なりによって風景として見えてきた感覚?

宇宙物理学者の佐治先生が「平行線は交わる」とおっしゃってて、赤道に直角な線同士=平行線という捉え方なのですが、
すなわち、交わる点は北極星。

それぞれのベクトルは2次元で考えるとバラバラなんだけど、立体にすると北極星で出会えるようになっている。まさに、出会い直すということかも。過去のメッセージにそれぞれのタイミングで出会い直したとき、プレゼントになってると嬉しいなというドキドキワクワクする感じがなんかいいな。
--miyabi
えー。なんかすごいなぁ。というか怖いなぁー。

つい最近、全部を一つの線にまとめちゃうからわかりにくいんだ。だったら二本の線で考えちゃえ!それぞれまっすぐの線に見えるから交わらないように思われるんだけど、きっとどこかで交わるんだ!って言ったばかり。そうか。立体に交わるのね。

メッセージが届く速度はそれぞれ違うけど。みんなで北極星で出会えたらいいね。
--miyabi
持ってる言語も背景も違ってなかなか理解し合うのが難しい部分もあるかもしれないけど。なんだか全然違う意見のものたちも、同じものを目指していると思ったら受け止められそうな気分。
--takashi
「星の王子さま」で有名なサン=テグジュペリの名言を思い出しました。それは「愛とはお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」です。

男女に限らず、人間は一緒に目指せる星を見つけられたら、惹かれ合い、支え合って、仲良くなるのだと思います。そうやって一緒に過ごした時間が奇跡のようなかけがえのないものになり、後から幸福がやってくるのでしょうね。

逆に「星の王子さま」に出てくる他の星の住人のように、相手を変えようとしたり、自分のことばかりに心が一杯になっていると、人間は赤道上のように違いの方が明確になり、距離感を感じて辛くなったり、仲が悪くなる生き物なのかも。
--takashi
あと、北極星と聞いて思い出すのが”冒険家”。
過去のすべての冒険家が見たと思うんですね。未開の土地に踏み入れ、不安と期待の中、夜空に探したと思います。その北極星をオイラも見ている。未来の冒険家もきっと同じ星を見るに違いない。

地球の軸線上にたまたまた星があった。その奇跡が、人類に法則という気づきを与え、海を越え、未開の土地に渡り、冒険を可能にしてきた。北極星は人類の好奇心の象徴と言ってもよいのではないか。

そう思うとワクワクが内側から起こってきて、冒険したくなっちゃうわけですw
--takashi
今、ちょうど読み進めている本があります。「人類は何を失いつつあるのか」山極寿一、関野吉晴共著です。帯がまた最高でw「弱いからこそ人類は旅に出たー前・京大総長とグレートジャーニー探検家の教科者に書かれていない文明論ー」とあります。
--miyabi
「愛とはお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」

素敵すぎる!それは価値観の共有でもあり、一緒に同じものを育むことでもありますね。
--miyabi
弱いからこそというのは、自分が無力で無知だからこそ、知りたい、成長したいという思いが湧き出るのでしょうか。

好奇心って本当に尽きない。
進めば進むほど知らない世界が広がる。
好奇心は私のエネルギー源です◎
--ayako
サン=テグジュペリのメッセージ、読んだ気がします!星の王子さま、また読みたくなっちゃった。

「弱さ」のキーワードも、もう少し聴きたいです!
--takashi
「弱さ」大切にしているマイテーマです!
あと、音声の本編では、「プレゼント論」についてや「勇気」についてつづきができればと話題に上がってましたね〜

どれからいこうかしらw
--miyabi
弱さからで!
--takashi
弱さね。弱さとは何か?
--takashi
前述の本の序章で山極さんはある問題提起から話をはじめています。それが「ゴリラは旅をしない」です。一方で人間の祖先であるホモ・サピエンスは、アフリカが発祥の地だとされていて、そこから地球上をどんどん移動してアルゼンチンのパタゴニアといった果まで広がりました。グレートジャーニーと呼ばれている旅ですね。因みに関野さんはグレートジャーニーを逆にたどる旅をして有名になった冒険家です。

なぜ、人間だけが旅をしたのでしょうか?
といった謎がこの本のテーマなんですね〜
--ayako
旅には、肉体的に移動する旅と、精神的に移動する旅(悟り?)があるように思いました。いずれにせよ、なぜ人間は旅をするのか…。何かを探しているような、何かがあると(信じて)追い求めているような…。何かを探しているような、何かがあると(信じて)追い求めているような…。
--miyabi
今日、上質な思想と実装に触れてしまって、今まさに旅に行きたい気分なのですが。何を追い求めているかというと、まだ見ぬものに触れたい、吸収したいという欲求。

自分が無知であるということ。
知らない世界がまだまだあるということ。
弱さと無知は関係しているのでしょうか、、、
--takashi
この本でも人類の祖先が旅をした理由として二つの可能性が紹介されていて、一つは好奇心などポジティブな理由説、もう一つは強い種に追い出されて仕方なく場所を移動したネガティブな理由説。前者は精神的な旅とも言えるし、後者は食うに困ってという理由では肉体的にとも言えなくはないです。
--miyabi
ネガディブな理由の旅であっても、路頭に迷うという表現ではなく、あえて「旅」というワードになっているということは。ポジティブな理由の旅も、ネガディブな理由の旅も両方とも、そこに諦めない、自ら求める意志があったというようにもとれるような気がします。

という視点で見ると、人間が旅に出かけられたのは、自我を持ち、意志を持っているからなのかなーとも思いました。
--takashi
本の中では、後者、つまり森を追い出されてしかなく草原に出た説の方を推していました。個人的に面白いなと思うのは、人類は強かったから旅に出たわけではなく、むしろ個としても種としても弱かったから森を出た点。弱さがきっかけだけど、だからこそより厳しい環境に移動し、その環境に適用していったことで人類は進化は果たした。有名な話ですが、種の生存において重要なのは強さではなくて、環境の変化に適応する力。変化し続ける力の方。弱いからこそ成長できる!点です。
--takashi
弱いから成長できる!この矛盾さ加減ってどこかピリはじに似てませんか? 

とはいえ、変化に適応したり成長したりすることってそう簡単ではなかったはずです。簡単なら他の生物も旅に出て適応していったはずだから。となると、気になるのが、なぜ弱っちいくせに適応しようと頑張ったのか、その理由です。

強い動機のようなものがないとやっぱりチャレンジしなかったように思うのです。その強い動機のようなものを一言で表現するなら勇気だと思うのですが、勇気がなかったら人類は生き残れなかった。じゃ、人類はその勇気をどうやって得たのかが気になって気になって。
--ayako
気になる気になる!気になります!!
--miyabi
あ!!意外と開き直った時に勇気が湧いてきたかもです。
こんだけひどいことを経験したんだから、これ以上ひどいことは起きないだろう。

失敗してもいいや。
大抵のことは失敗だ。

相手には敵わないんだから、
自分が今できることをやろう。

自分は弱いって認めちゃう。
そしたら、失敗を恐れなくなる。

失敗したくないからやらない。
が減る。

とりあえずやってみよう。
楽しいと思うことをやろう。
に変わるような気がします。
--takashi
実は本の中でもそのヒントが紹介されています。山極さんの説によると、人類の祖先が森から草原に移動して生き残れた要因は二つのことをパイセン達がしたからだと言っています。それが「食物の共有」と「共同保育」。

森の中は食べ物が豊富で食べたい時にいつでも食べることができます。なので、食の奪い合いはまず起きないし、逆に食物の共有もありません。一方、草原は食べ物が豊富ではありません。また、二足歩行って俊敏性や攻撃性はいまいちだけれど、道具を使ったり、重たい荷物を持って移動したり、より遠くまでゆっくりと移動するには向いていました。身体能力的に弱っちい人類は個では大した獲物は取れなかったでしょう。おそらく集団化し協力したはず。

また、取った食べ物をその場で全て食べ切ってしまったら人類は滅びていたでしょう。持ち帰って弱い存在、子供たちや奥さんたちと分けて食べたから生き残れたと。鳥たちも餌を運んだりしますが、我が子以外、家族以外に分け与えることはまずないでしょう。猿たちも子供が川に溺れた時、母親は助けようとして騒ぐそうですが、他の猿山の猿たちは一切助けようとしません。人間だけが家族以外でも溺れていたら助けようとする唯一の生き物だと本でも指摘していました。確かにそうですよね。

弱くて貧しいから助け合いが生まれ、「食物の共有」と「共同保育」を可能とし、その結果人類は数を増やすことができたというわけです。

勇気の話に戻ると、血のつながりを超えて自分より弱い存在を助けようとする共感の心が人間を人間と足らしめたし、勇気の源泉なのでは?と、谷村は解釈しています。
--takashi
もし人類が強かったら、自分より弱い存在に共感できただろうかと谷村は思うわけです。キャリさんが言ってくれたように、人類は自分の弱さを認めたから、開き直れたから、自分より弱い存在と接した時に見て見ぬふりができない心を持つようになったのではないでしょうか。できないくせに何とかしようとした結果、血のつながりを超えて助け合う共感の心を持つにいたり、その究極としてリスクを負ってでも弱い存在たちを守るために旅に出たのでは?と谷村は思うわけです。
--miyabi
人間は進化の過程で、未熟なまま産まれ、他者と助けあう、つまり身体的能力よりも社会的能力を選んだと言われますよね。生物に組み込まれているのが種の保存。次の世代に繋いでいくこと。

人間が生きていく上で、弱さに共感し、助け合いながら生きていくというのは、人間独自に組み込まれたプログラムなのかもしれません。
--miyabi
一方で、人間は大脳が発達したことにより他の生物よりも強い自我を持っています。だから、自分と向き合い、自分とは何かを問う。種をつなぐ上で、自我は必要ないんだけど。自我に価値を見出してしまったからこそ、人は悩んだり弱さを感じたり、何かを求めたり。

この矛盾が人間が旅に出かけることにも関わっているような気もします。
--miyabi
と、書いたところで、、、
本来は弱さとかできないことを互いに協力し合うことによって支え合っていたのだけれど。弱い部分を行き過ぎたテクノロジーが補ってしまっていて。他者との関係性を持たなくても成り立つ、歪みみたいなのが生まれてしまっているのかも、、、

関係性が希薄になっている要因、、
と、新たな問いが立ってきました、、
--takashi
そうそう、本のタイトル『人類は何を失いつつあるのか』につながる訳です。キャリさんのいうように共感力は諸刃の剣でもあって、強すぎる共感力が不安や争いを生むことも指摘されてました。
--miyabi
あ!そこに繋がるのですね!
本のタイトルをすっかり忘れていました。笑
--takashi
コロナ禍が、現代社会が抱えている問題を良い意味でも悪い意味でも加速させたような気がするのですが、コロナ禍もあって今の若い人達と接していて感じることとして、旅に出ようとする人が減っている印象があります。そもそも旅に出る理由がわからないといった印象が。もちろん冒険には外へ外へだけでなく、解像度という内へ内へもあるのですが、せめて内側に探求してくれているとよいのですが、、、
--ayako
なんだか、人類って本来愛らしい生き物だったんですね。弱いっちいくせに何かを必死に守ろうとしている。でも強い種にはどうにも敵わないから、強力してがんばろう!というチームワーク。

小さな子供が、妹弟を必死に守ろうとしているどこか本能的な「僕が守るんだ!」という愛らしさ。

だけど、人間に強い道具をたくさん手に入れたから、自分が弱い存在であったことをすっかり忘れてしまって我が中心の世界に。

弱いからこそ、謙虚に見えていた世界の発見も、強くなると見えなくなっていく。見えないことが日常化していくと、色んなことに無関心になってしまうんですね。もう一度、世界を発見していくために、今必要なこととは?が、一人ひとりに問われていそう。
--takashi
清水さんがいうように、矛盾した愛おしい存在ですよね〜。本当に本当に。子供たちを見ているとなおさらそう思います。

また、弱さを受け止めるには心丈夫でないと難しい。心の強さと引き換えだと思うんですよね。確かに相対的に体は弱いけど心は丈夫な状態。のび太みたいにw。体が丈夫なジャイアン、頭が丈夫なスネ夫。主人公は心が丈夫なのび太。

人類は草原を出て肉食を覚え、農耕を覚え、大脳皮質が発達して頭も丈夫になってきたけれど、その前に心が丈夫じゃないとグレートジャーニーは果たせなかったように思います。むしろ、相対的に体が丈夫で心が弱い人類から順番にアフリカの近くに定住していったのではないかとも。そんな可能性もあるのでは?と思わざる得ない訳です。
--takashi
キャリさんがいうように共感力って諸刃の剣でもあって、強すぎる共感力が不安や争いを生むことも本の中でも指摘されてました。

今我々の周りを見渡しても、戦争をはじめ争いは絶えてなくてむしろどんどん一方的で、卑怯で凄惨になっています。紛争から国を捨てて大移動する人達がいる。それも認めたくないけど、旅の一つの姿です。

そんな国を追われて命からがら逃げてきた難民を国家権力を行使して非人道的に死へ追い詰めて平気でいてられる信じがたい非文化的な国もあります。都知事のようにバンクシーの絵が見つかったと言ってピースサインで写真を撮ってSNSに上げている場合ではないわけです。バンクシーはもちろん、世界中に恥部を晒すような行為です。恥ずかしい。

如何なる理由があろうとも自分より困っている人が眼の前にいたらひとまず手を差し伸べる。それは人間らしさであり、一番基本となる文化的な行為といえるのではないか、そんな風に思います。心の傷の跡が多ければ多いほど、人間的な魅力が増していく生き物なのかも。
--takashi
弱さのテーマだけで、しかも一冊目の本だけで随分遠くまで回り道してしまいました。映画『七人の侍』の話も紹介したかったのですが、、、もうお腹一杯ですよね。

ただ、もうお腹が一杯でも、デザート的にどうしても共有して話しがあります。
--miyabi
ある意味、ピリはじってる訳なので、聞きたいです!
--ayako
デザート別腹です!
--takashi
ここからはと独楽舎風に”行きあたりバッチシ”で書きますね。デザートと言いながら2種あるんだけどw
--takashi
一つは、手放す話。
いかなる理由であったとしても旅に出て、特に移り住むという場合だと、生まれ育った安全で安心なホームを手放すわけですよね。この手放して未知を受け入れるという行為がやっぱり特徴的で、勇気と呼びたくなる心丈夫な証に思えるんですね。

でも、手放して受け入れるって正直言ってなかなか難しい。歳を取れば取るほど、成功した体験ほど手放すのが難しくなります。だからこそ、人類は文化を生み出したのかなと。一見すると、文化的な行為って何の役に立つの?といった珍で謎なものが多いですよね。都会化される過程で、文化行事はどんどん価値を失い、簡略され、大都市になればなるほど敬遠されてきた。
--takashi
そもそも、人類が生み出した様々な文化的な行為を俯瞰すると、占有せずに押し合いへし合いして譲り合ったり、わちゃわちゃしながらも結果的に一緒に共有しやすくするための工夫が随所にプログラムされているように思うんですね。

例えば、祭りは、命を奪い合うような争いを回避し、一緒に不可能なことを可能にすることで、共存の面白さを可視化しつつ、当事者意識やモチベーションはしっかりと高める効果があるように思います。都会化は便利になって面倒なことは減ったけれど、豊かになった結果、当事者意識や生きるモチベーションはまるで低下してしまったと思います。

本の中では、祭りに関するエピソードはなかったのですが、代わりに狩猟採集民と交流した時の様子を紹介していました。二人とも共通して語っていたことは、彼らは皆お節介だったと。不思議なほど自分達のことを受け入れてくれたと。

日頃から仲間と食物を分け合い、ともに共同して保育することで、手を放し受け入れる練習をしているから、いざという時にその場所に執着することなく、腰を上げて旅立てるのではないか。で、祭りがそうであるように、旅も、行き当たりバッチシなことが起こったのではないかと思っています。長い年月をかけてますから、その間、不幸なこともたくさんあったと思いますが、それと同じくらい幸運なことがなければグレートジャーニーというバトンはつながっていかなかったのでは、そんな風に思えてなりません。
--takashi
もう一つは”ないをあるもの”にという話です。
そもそもオスが子育てに関わる生物が少ない中、ゴリラは父親も子育てに関わる珍しい生き物だと紹介されていました。その表現が秀逸で、父親ゴリラは母ゴリラと子供ゴリラからそうと認められないとなれないとw

さて、人間の父親との違いですが、2つあって、一つ目は、最初、母ゴリラが子育てをするのですが、二人から認められ父ゴリラが子育てをするようになると母ゴリラは子育てをしなくなるそうです。つまり子育てが二人で行う協働作業ではないということですね。

二つ目の違いは、父ゴリラが母ゴリラや子供ゴリラの前からいなくなると、父親であるとは認識しなくなるそうです。裏を返せば、人間は、狩猟などで父親が長い間離れて暮らして戻ってきても、父親として受け入れてもらえるところが特徴と言えます。

さらに、周囲の人間も「あいつが父親だ」と認めます。山極さんの言葉を借りれば、「人間社会の父親とは、周囲の全ての人間が合意した存在です。社会制度だといってもいいかもしれない」と。つまり、「食物の共有」を可能にしたのは、父親側に家族はもちろんの周りの人たちも獲物を持ち帰ることを待っているという認識ができたためであり、妻や子側も目の前にいない父親がいつか獲物を取って帰ってくるはずだと、つまり”ないをあるもの”としてイメージできていたからだ、となります。

ピリはじの議論の根っこをたどっていくと、一つにはこの「ないをあるもの」に変える力とは何か?に行く着くのではと思ったりもするのですが、どうでしょうか? 

そして人類にとって最初の「ないをあるもの」に変えた発明が父親という存在だった。どうでしょう。ちょっと強引すぎるかなw
--miyabi
「ないをあるものにする」が父親に繋がるとは。笑

視覚的、触感的に捉えられないものを「概念」として捉えてしまう。その想像力は人間にしか備わっていないのかもしれませんね。
--ayako
ないをあるものに変える力とは?
今ここにはない(見えない触れない聞こえない)けど、あったらいいなという想像力。

その想像力を紐解くと「もしかしてこうなのかな」「こうだったらいいな」という探究心。そして、「こうあってほしい」「きっとこうだろう」という信じる力。

ここにはない世界を知るために、人類は立ち上がり、弱いながらも未知なる世界へ飛び込んで、飛び込まざるえなかった状況でもきっと大丈夫だと信じて生きてきた。

なぜ信じられたのか。
やっぱり、人類同士が支え合って生きていくことを裏切らないという、これは人類の才能(言ってしまえば、これも愛ですね)かも。この才能を、今一度開花させることを、分野は違えど色んなところで色んな人が今まさに取り組んでいるような気がしました。
--takashi
恋と愛の違い!でもあるし、それはGIFTとPRESENTの違いでもある!ないものをあると感じることができるから、眼の前にいなくても対話ができる!その始まりが父親という存在だとすれば、精霊や神にいきつくのも時間の問題のように思えてくるし、究極が死者との対話になるのでは。。。死者と対話ができるなら、仲間は生きている人に限らなくなる。ある意味無尽蔵に。

さらに、死者と対話ができるなら、今ここにいる生者との対話や自分との対話が何だかへっちゃらな気がしてくる不思議。そうやって、後世の人からすれば不可能にしか思えないことを可能にしていく原動力になっていったのでは。そんなことをついつい妄想しちゃいます!

勇気ってそうやって湧いてくるものなのではないだろうか。一人じゃない。過去にも未来にも仲間がいる!
--ayako
今、この瞬間に谷村先生が抱いている妄想とそのワクワクの源はどこにあるのですか??
--takashi
ナイスパス!
--miyabi
そろそろ月も満ちるので、締めくくりにそのお話を聴いて私たちもワクワクを満たしたいです◎
--takashi
今、この瞬間に谷村が抱いている妄想って何ですか?と聞かれたら、うーん、どうだろう。一つに絞るのが難しいけれど、まだトライできていないことに絞っていえば、今の大人にとって”遊び学び”ってなんだろう?に興味津々です。
--takashi
今ここ的に私の視点から見えている手がかりを上げるなら、「歴史と自然に学び、仲間と地球で遊ぶ」かなと。21世紀の冒険家って?と言い換えてもいいかも。例えば、リアルに未知なる世界(社会の問題)に正面から分け入っていくのも興味があるし、バーチャルに未知な領域であるweb3.0の世界にも興味があります。そんな冒険的な要素を真ん中においた教育のあり方があってもいいのでは?そんなことを考えているとワクワクします。

というか実際にもう起こってますよね。
既にそんな実験的な試みが同時多発的にあちこちで起こっていて、受身なテレビやTikTokなんか見て時間を潰している場合ではないなーと思うんですねw。このピリはじだって、私には大人の”遊び学び(やってみたらどうなるんだろう?)”の一つに見えます。そんなマインドを繋いで”コネクティング ザ ドッツ”的に何か不思議なものを生み出したり、そんな感度を高めてくれるカルチャー(メディア)をDAO(分散型自律組織)的につってみたいですねw
--takashi
そのワクワクの源は、どこにあるんでしょうね。初めて考えるかも。

私の場合、やっぱり人間という生き物への興味関心に尽きるかも。建築に興味を持ったのも、ある時人間って何だろう?と建築が繋がったから。もちろん一人一人の人間にも興味がありますが、それ以上にバラバラの人間が集まって協働して創造することに一番興味関心があります。コラボ好きなんです。建築も1人では決してつくれないですしね。色んな人が同時に使うのも建築の醍醐味です。

そうそう、最近子供頃読んだ絵本を紹介する機会があって、改めて変わってないなーと自己理解を深めた出来事がありました。ちなみに、私が子供頃、何度も何度も読んでもらった絵本は、「ぐりとぐら」です。森の中で大きな卵を見つけてそれを使ってでっかいパンケーキを焼く。そのパンケーキを森の色んな動物たちを集めて一緒に楽しそうに食べているシーンが大好きなんですよね。もちろん、最後に卵の殻を再利用して車を作って移動するシーンも最高です。私の興味関心が全て詰まっているなーと。

子供頃から興味関心の対象は変わっていない。だけでなく、一方でそれはきっと縄文時代から変わっていない気もするんですよね〜w。2年半前に相方のトコさんと大人も子供も本気で遊ぶ「と独楽舎」を立ち上げ、活動を始めました。山や海や土、生き物といった自然と触れ合う機会が増えました。毎回のように火を起こしたり、大人たちが本気になって窯を作って裏山の土でつくった土器や土偶を焼いたりもしています。そんなことをしていると、ふと思うわけです。縄文人も同じようなことしてわちゃわちゃしていたんじゃないかと。そう思と妙に心が落ち着きついてきて自信が内側から溢れてきます。

ここ最近、人生って”遊び学び”とイコールだな〜と思っていて、ならば、これからの人生を全力で”遊び学び”に捧げたら何が起こるんだろうと。実際に、ここ数年、谷村というフレームを使って、”遊び学び”に重心をどんどん移動させていくと何が起こるんだろう?的な社会実験をしている感覚があります。するとねー不思議なことが実際に起きてくるわけです!”運命の歯車がぐるぐると回りだす”と呼んでいるのですが、運の巡りが良くなって人と共にラッキーが運ばれてきて、1人で生きている感覚がスーと消えていきます!そこが私にとってのワクワクの源流域かもしれませんね。

例えば、「と独楽舎」という活動も、有難いことに立ち上げた2人の手の平を早々に飛び出して、どんどん人間を巻き込み、力強いうねりを生み出す存在になってくれています。私やトコさんの影響というより、参加してくれたメンバーたちによって「と独楽舎さん」という第3の存在として育ってきたか感があります。「と独楽舎さん」は私の想像を超えて、予定非調和なドラマを生み出してくれていて、本当に最高にライブでリアルなエンターテイメントなんですよね。世の中、色んな面白いことがあるけれど、今の所これ以上に面白いことはないなーと。このみんなで育てる第3の存在もワクワクの源の一つだと思います。
--takashi
自分でもよく頑張ったと思いますw!
--takashi
そして潜在的な力を引き出してくれたお二人に感謝感謝です。では、また新月の夜に。
--ayako
なんだか、素敵な物語を1冊読んだ気分です。ありがとうございました。また新月の夜にお待ちしております!


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