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≠typeA

私は、幸せな風景や場面に出くわすと、
純粋に感動する気持ちと同時に、その幸せがいつかなくなることを想像して悲しい気持ちを感じてしまう。

例えば、「おおかみこどもの雨と雪」という映画を観たとき、
あらすじの地点でなんとなく父親が死ぬことがわかっていたので、
親子が幸せそうに楽しむキラキラした場面で、この後に家族が感じるであろう悲しさを想像して泣いてしまい、
隣にいた友人に、映画が終わったとき
「めっちゃ変なところで泣いてたよな!?」と驚かれた。

今年、自粛生活の春を過ごす中で、満開の桜や咲き誇るマリーゴールドやツツジの花を見た時も同じだ。
『ああ、なんてキレイでこの瞬間に立ち会えて幸せだ』と思いながらも、
このキレイさを多くの人に見られることなく散っていくのか、
と思うと悲しくなるのだ。

自分でも正直、この感情の豊かさを持て余している。

これを豊かさと呼んでいいものかどうかもわからないが、30年の人生を生きているなかで、私と同じように感じる人はとても少ないことに気づいた。

別に同じように感じてほしい、とは思わない。
他人に期待することの辛さ、期待した結果が得られなかった時の辛さはよく知っているから。

それでも、同じタイプの人を見つけるととても嬉しく思う。

私は仕事場とか初対面の人から見ると、
真面目でサバサバした人間と思われてる気がする。

適度にコミュニケーションが取れて、真面目に目の前の仕事に取り組み、人間らしい感情表現をする。
職場ではそんな人間と付き合いたいと思うからこそ、そういう人間でいるように心がけている。

でも、心がけなくても自然体でそういうことができる性質の人がいて、私は彼らのことを心の中で、typeAと呼んでいる。

◎typeA
楽しいことを楽しいと思って受け入れ、
適切な努力で自分の望む結果を手に入れ、
人を愛し、世界の秩序に疑問を持つことなく、
世界を愛することができる人。

(※何となくいつも出会った人をtypeA~typeDぐらいにカテゴリー分けしてしまう。あまりよろしくない癖だとは自覚してる)

私はtypeAもどきだ。≠typeA。
擬態はしているが、似て非なるもの。

幸せと背中合わせの寂しさを常に感じて生きている。
愛されることや、愛することに疑問を持たずにはいられなくて、明確な理由が欲しくなる。

typeAになりたい。
日常に疑問を持たずに生きてみたい…!!
と、思うこともあるが、
人間そんな簡単に変われやしない。

それに、咲いてる花に侘び寂びを感じるなんて、私は詩人に向いているのか?とアホな妄想をする自分も嫌いではない。

便宜上カテゴライズすることはあるけど、
結局人の性格ってグラデーションやなぁと思うし、
昨日の自分ですら、なんでそんなこと考えてたん!?って思ったりするし、
自分も他人も世界もわからないことだらけだ。

typeAも、typeDも、typeRも、
仲良くできなかったとしても、
みんなそれぞれ自分の幸せのこと考えて
明日も生きてみようか。

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