強いつながり


東浩紀のいう『弱いつながり』を知る前から、わたしは彼がいう「強いつながり」についてよく考えていたと思う。

彼は「強いつながり」を必然性の繋がりだと言う。

マッチングアプリで趣味嗜好が合うパートナーと出会うのも、SNS上でのコミュニティがお互いの顔を知らずとも盛り上がるのも必然的である。
学校や会社で似た趣味嗜好を持つ同士が集まるのも、彼曰く必然的である。


私は彼の言う「強いつながり」を言い換えると、
″同じ言語を話す者同士″だと考えている。

一緒に過ごす時間が多いほど、
言い換えれば、長く一緒に居ても心地が良いのは、同じ言語を使う者同士だと思うのだ。


私の場合音楽趣味が合う人に出会うと、
「この人にはこの曲がインストールされてるから、自分が使い慣れたメタファーが使える」と安心感を抱く。


あずまんが言っているのは、この安心感の元で過ごし続けることは危険だということだ、と解釈している。


確かに、音楽趣味があまり合わない人(=強くないつながり)と音楽について話すには言葉を選ぶ。

自分が好きなアーティストを良く思って欲しい思惑もあるし、自分が詳しいジャンルについてマウントを張るような言葉を喋る人も多いだろう。

脳みそにとっても、インターネットに埋もれた現実社会の人間関係のあり方にとっても、慣れ親しんだ言語ばかり話すよりは、定期的に使い慣れない言語を使うことが肝だろう。


そもそも考えてみれば、
私が音楽趣味が合う人と出会うのも必然的であろう。

狭い視野で見れば、私とその人は偶然に出会ったようだが、同じ趣味の者同士が自然と集まる場所やタイミングが重なるのは、たしかに必然的に思う。

『出会うべくして出会った』という言葉は、
「偶然の中の必然」みたいにロマンチックだが、実際は必然を言い換えただけだ。


それだけど私は、目の前の他人が自分と同じ言語を喋ることに感動してしまう。

出会いが交わる今までも、
それぞれの場所で同じ言語を使って話し、思考をしてきたのだと感動してしまう。

この人の中にはわたしと同じ言語がたくさん詰まってるんだ、と。

数ヶ月に一度会うが、何を話したらいいのか分からない血の繋がった父親より、
まさしく「強いつながり」を感じているのだ。

誤解を招きそうだが、「強いつながり」そのものに感動しているのではない。

「強いつながり」に感動している、言葉の奴隷そのものの自分を面白おかしく思うのだ。


たとえば、好きなマイナーなアーティストの名前が、他人の口からぽろっと溢れ出てきて、それを聞いた瞬間に胸が弾むこの事象が摩訶不思議に思うのだ。

ニューロンがパチっとなったのだろうかとか、
言葉によって鼓動が早くなるなんてとか、
慣れ親しんだ言葉は耳にもつるんと馴染みがいいなとか。


そんなことを思うのです。

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