古代リベラルアーツ!なぜ今の時代小さな子供にも大人にもマストなのか?
■本屋に足を運んでいますか?それは何の為ですか?
スマホやKindleなどの電子書籍が全盛の今の時代。
確かにその末端は、自分の書斎を全部持ち歩けると意味では、便利な時代になりましたね。
私の周りにも電子書籍だけの作家は、キライだけどリアルな本を出して
いる作家は信用できるという人は多い。
なぜならば、編集やイラストなど
沢山のスタッフの目に触れてから世にでるからだと。
誰でも発信できる時代というのは、モニターの向こうにいる相手と気持ち
(インサイトの部分)が見えないから自我が暴走しがちになります。
本当に海千山千の情報過多になってしまう。
そこから、必要な情報といらない情報を分別できる智慧がいる。
今日のkeywordである「古代リベラルアーツ」の3つの柱がドーンと
御柱のように立っているならば、いい情報を出せるし逆にキャッチも
できるようなメリットがあると思います。
私は書店が好きです。1番良くいくのは有楽町の三省堂有楽町店と、銀座の教文館の3階キリスト教フロアです。
そして、もう一つ近所に借りているトランクルーム(部屋に自分の本を全部をおけないから仮の書庫として利用)
この3つの蔵書が私の憩いの場です。
■今日のテーマは?
「点と点を結ぶ古代リベラルアーツとヤコブの梯子(はしご)」
から創造力を高めるソフトスキルは、小さな子供でも大人でも・・
必要なマストであるは、時代の要請からだ。
リベラル・アーツを現代のリベラル・アーツとして捉えてしまっていると、点と点を結ぶ創造力(クリエイティブ)が出てこない。
つまり、リベラル・アーツを「単なる一般教養」「実務書コーナー」
「ノウハウ本」で教養を広げることと誤解する人が多いのでは
ないか思っている。
上記の三省堂有楽町店に平積みしているビジネス書も、その現代のリベラルアーツの部分にすぎないと発想してみたら
どうか?その証拠にそのビジネス書を読んでも、実際の行動に起こさない人が殆どだと思う。
私もそうだから、人を攻めてジャッジしているつもりはさらさらない。
それぞれの人の心に「(知識としてはわかったけど)ストップサイン」を点滅させて行動しない人が多いだと思う。
読んでわかった気になって終わりになる。知識が 実際の自分の体験で汗と涙の洗礼をうけて智慧に昇華しない。
そして、いつも日常にまた舞い戻る。そして、今度はまた別のビジネス書やリベラル・アーツに手を伸ばしていく。
まるでジプシーのように「水」をもとめて・・砂漠を放浪する。
こういう現状のサイクルを回している人は多いと思う。
いや、俺は(私は)違うという人にはすみません。
でも リベラルアートは、対象が人間であり・・必ず「相手」がいる。
その相手が、上司にしろ顧客にしろ「君の言っていることは正しいのだけど、なにか違う気がする。(行動させる気にならないだよね)と口を開いたと仮定しよう。
それは、相手に届かないということ。もしくはロジカルな正論をまるで「ドッヂボール」のように相手の陣地にドーンと飛んで
いっても相手にボンと当たって終わり、そこからキャッチボールやラリーのようにならない。
それは、相手を知るという本当の古代ヨーロッパの市民教育であった原初のリベラアーツからズレてしまっているから。
■では、古代ヨーロッパの市民教育のリベラルアーツとは
どんなものだったろうか?
それは背景が今のわたしたちの置かれている背景とまるで違う。 戦争のあけくれていた時代だったので
自分を、そして自分の大切な人を守る為の「危機感」が否が応でも必要だった時代。
戦争に負けた国が、そして生き残る為に身に着けざるをえなかったスキルだった。
それを知っているラビ(=先生)が戦争を知らない子供たちに教えて生きる智慧だった。
もともと紀元前のローマ帝国では、算術・幾何学・天文学・音楽の4つの科学的学問(数学)から、市民教養が始まりました。
のちに文法学・論理学(弁証法)・修辞学の3つの人文学分野が取り入れられ、先ほどの科学的学問(数学)に統合した「自由七科」となり、中世から近世における基礎学問として定着。
さらには医学・法律・神学を学ぶ入口にもなったのが当時の自由七科で、現代のリベラルアーツの起源となっています。
大切なのは最初の3つ。
1️)文法学【最重要な生き残る為のスキル】
これは英語で表すとグラマーと表記されるので、
言語の文法学と勘違いしやすいが
中身はまるで違い、相手(仲間や敵)の気持ちを読む知覚力だった。
芸術 にしろ戦争にしろ感じるチカラのレッスン。
この文法学のグラマーが生き残るためのダムになる。ここの水が枯れたら
もうこの古代の時代では生きてはいけなかったのです。
2)論理学
は、現代のビジネスマンの大好きな「ロジカル思考」、そして最後は、
3)修辞学(レトリック)
・・弁論術であり
ライティングでもあるプレゼンテーション。
主題をめぐる問題点を見つけだし,それにふさわしい論証の材料や方向をさがしだす技術。
口と手(文章)をつかって。 そうしないと、戦争にまけた民を説得できないから。
■じゃあ アップルのジョブスはどう?このリベラルアーツを捉えていたのか?
これはipodデビューの際の有名なメッセージだったので知っている人も多いと思います。
古代のラビが教えたリベラルアーツを私なりに解釈すると
本来、知覚を起点とする知的生産トレーニング体系だったと思います。
これから積み上げてゆく知を頭の中にインストールしても、何と何を組み合わせて出すか?の訓練。
それがないまま、「ロジカル思考」や「レトリック」を本屋で何冊を買ってもただのコレクターで終ってしまう。
ジョブスのことばを解釈すると
彼が口にした「人文科学」というのは、今の時代のようにモノが溢れている時代、ユーザーに打ち出す明確な答がない問い
にたいして、自分なりの答を提案するのが「人文科学」「古代のリベラル・アーツ」といいたかったかもしれないですね。
なぜなら、人文科学が扱う諸課題のほとんどが、「人間」に関わっているから。
自分の頭の何かが生まれる為には、仮の答をたとえβ版でも何発も出すしつこさには、「問い」が重要だと。
■最後に 私がなぜ?美術鑑賞を学ぶのか?
Q:君はなぜ? キリスト教美術が好きで、
上野の美術館にあしげく通ったり、美術サイトをみるをみるんだい?
A:医学が専門だから、自分の意識が「部分」にフォーカスしがちで、
自分のバイアスでやれてしまう。
論文も自分に都合のいい論文しか読まないではないか?
その逆の視点から論文にもっと目を通そう。
YESもNOも全体を観察して理解すべきだ。
部分は全体の要素として存在しているすぎない。
部分に意思があるように、全体にもまた別の意思がある。
部分と全体をまるで ヤコブの階段を上下する天使ように上がったり
さがったりする最中に
本質というははじめて、顔を出してくるのではないか?
■ ホセ・デ・リベーラ(1591-1652)
題名:ヤコブの夢
作者のホセは、旧約聖書の聖書のヤコブを描いた。
今は寝ているが、天から「ヤコブの梯子」を降りてきて天使が上り降りしているのを夢でみた。
そして、自分のいるところが神の家ではないか?と気づく。
つまり、神はアブラハムの子孫である自分の中にいると。
☆この絵(バロック美術のかかれた時代背景
作者のホセスペインは、バロック期のスペイン黄金時代を代表する画家
聖人や殉教者をカラヴァッジョ風の劇的な表現で描いた画家。
ルネッサンス美術が終わり、宗教改革の時代を越えた後の世界。
堕落した芸術と最初は評価されていたが、後に評価された。
ルネッサンスの模範的は縛りから一気に開放された画風だった。
今までのキリスト教美術を書くしがらみから、呪術から開放されたの
がこのバロック美術。
この絵のベース知識となる聖書の聖句
※ 人の子=死んで復活したイエスのこと。
これは旧約聖書創世記28:10-12の、
地上から天国に通じる梯子「ヤコブの梯子」を
イエスが自分自身のカラダにたとえている
■私の秘密兵器の紹介です。
書画カメラです。
使い方:買った紙ベースの本は、色ペンをつけてくちゃぐちゃにしてしまうから、それを超高速でこの書画カメラで写して連続したPDFにしてしまう。
図書館の本も、借りてこれるものは、家で超高速連写してData化
貸出が許されない本も、図書館で超高速連写してData化
すると・・どうなるのか?
私のサブノートPCは、リムーバルSSDを介して
文字通り、動く書斎になります。
図書館によっては、デスクに電源がないところもあるので
女子高生のようにモバイル・バッテリィをもって移動します。
ムサイ”おっさん”に見られないように香水もマストです。
別居中の中学1年の娘からこう言われそうです。
「パパぁ、リュックが膨らんでいるんだけど・・
何を入れているの?どこかのお寺から小さな
仏像でも盗んできたの? そんなにその仏像は
パパに、知的生活の智慧を与えてくれる後光を
放っていたの?それは素敵なことね!」