1.範囲
藤岡訳『全体性と無限』p.370 - p.376
第Ⅲ部 顔と外部性
B 顔と倫理
5 言語と客観性
2.解題
言語によって私と事物の関係は他者のもとに置かれ、「使用上の関係」から「理性的な関係」に移行する。「使用上の関係」とは、例えば、「ハンマーは釘を打ち付けるための道具である」というように、ある目的を果たすための手段として道具化され、そのうえで対象を私に都合の良いように変容してしまう(我有化する)、そのような関係である。これは、ハイデガーの道具連関を想起させる。言語によってこのような道具的連関が断ち切られ、私と対象が他者のもとに置かれる。他者のもとに私と事物が脱所有的であるような関係を、ここでは「客観性」と呼んでいる。
言語は私と事物の所有関係を切り離すのみならず、この私自身からの脱所有化の条件にもなるという。「自分自身の脱所有化」とはいかなる事態を示しているのだろうか。日常的な例に即して考えてみよう。昨日の私と今日の私は、普通に考えれば同じ私であるとわかる。日中仕事をしていたのは私だし、夜にラーメンを食べていたのもこの私である。その私がいまここにいる。だから、昨日の私と今日の私は同一人物である、と。しかしながら、昨日の私と今日の私の自己同一性が認識できるからといって、両者が隅から隅までまったく同じというわけではない。微小な差異は必ずある。そして、この差異を生み出すのは「時間」である。昨日の私と今日の私のあいだを自己同一性のもとに連続させる「時間」の概念は、逆に、絶え間なく差異を生み出し続けるものでもある。時間を生きるということは、自分がつねに自分自身から隔たっている=差異が生まれ続けている状態を生きることなのである。
さて、客観性の話に戻ろう。そもそもなぜレヴィナスは客観性を持ち出したのかだろうか。おそらくそれは、客観性という外在的領域が、他者との言語的コミュニケーションが成立する可能性として妥当かを問おうとしているからではないだろうか。言語はたしかに他者とのコミュニケーションを可能にするものではあるが、しかし、私たちは本当に言語によって互いの思考を理解し合えているのだろうか?そこでレヴィナスはフッサールの他者論に言及する。フッサールの客観性は、相互に独立した主体のそれぞれの主観性から帰結したものとして考えられる。レヴィナスが言いたいのは、フッサール(あるいはデカルト)的な主観性は、それ自身以外に何らの支えもない完全に独立したモナド的なコギトであり、結局、私と他者の共通世界である客観性には到達できないではないのか?という問いである。デカルト以降のコギトにもとづくかぎり、言語的コミュニケーションを通じた意味の了解は困難な事態となる。レヴィナスは、〈他人〉=無限との関係を「倫理的関係」として捉え直すことによって、哲学が陥っている主客に関する論理的困難を克服しようと試みているのだ。
デカルトの『省察』の第三省察は、コギトと無限の関係について言及した箇所である。デカルトは、人間がみずからの有限性を自覚するのは、そもそも完全である神の観念を内に持っているからだと主張する。あれほど徹底した懐疑を示し続けたデカルトが、まったく何の疑いもなく神を確実性なものとして取り扱っている。神は確実だからこそ、それを背景とするコギトは有限性を自覚し、さらに方法的懐疑が可能なのだ。
デカルトが神を無条件的に受け入れることで、コギトは他者とのコミュニケーションの場である客観性を確保したように、レヴィナスもまた、神を〈他者〉として受容することで、自他の意味了解が可能となる客観性が可能になると考えているのではないだろうか。また、レヴィナスは神=無限の受容が主体の主体性を解体するようなこともない。その理由はここでははっきり述べられているわけではないが、〈同のなかの他〉的な主体構造を思わせる点で、後期思想の萌芽がすでに見て取れるだろう。
3.まとめ
客観性は他者との意思疎通が可能となる公共的領域である。本節では、どのような構造であれば客観性を担保できるのだろうか、ということについて考えていた。レヴィナスによれば、デカルトは神=無限の無条件の受容によってその客観性を担保している。このような関係を「倫理的関係」として捉え直すことによって、真に他者と出会える客観性を描き出そうとしていたのかもしれない。