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レヴィナス『全体性と無限』を読む(9)―「正義」について

「正義」の概念は「言説」の概念と不可分にある。「言説」の概念について概観していこう。前回の「真理」の記述においては、認識する主体である「私」が、「他なるもの」である「無限」を〈欲望〉する運動が「真理の探究」であることを示した。レヴィナスは、「私」と「無限」の関係を「隔たりを飛び越えると同時に飛び越えることのない、この真理という関わり」(同書 p.120)とも言い表している。そして、この関係は「言説」に依拠している。

1.「認識」を逃れる「顔」

「言説」の前に、レヴィナスは「認識」に言及する。「認識」は「真理」を明らかにする働きであり、この「真理は曝露〔=幕を剥ぐこと〕である」。「客観的認識」において主体と対象との関係は「無私無欲」、いいかえれば、対象は主体の関心からは完全に分離しており「自体的なもの」のはずである。

しかし、実際そうではない。なぜなら、「客観的に認識することとは、《歴史的なもの》、《なされたこと〔=つくられたこと〕》、《すでになされたこと〔=すでにつくられたこと〕》、《すでに乗り越えられたこと》を認識すること」であるからだ。「《歴史的なもの》とは現象―現実性なき実在性―」であり、「みずからの原理〔=根源〕を失った無始原的な」ものである。《歴史的なもの》はみずからの起源を失っており、それ自身として自律的に存在する「自体的なもの」ではありえない。「客観的認識」が《歴史的なもの》を認識する働きにとどまる以上、「自体的なもの」=《真なるもの》へと到達することは不可能である。(同書 p.103-194)

さらに「客観的認識」は「視覚」によって担われてきた。「視覚」による「認識」が可能となるには「光」による媒介が不可欠である。デカルト風にいえば、それは「理性の光」である。この「理性の光」が「視覚」に基づく「客観的認識」を可能にしている。

しかしながら、すでに述べたとおり、「客観的認識」においては「自体的なもの」=《真なるもの》は現出不可能である。レヴィナスはソクラテスあるいはプラトン以降の西洋哲学に伝統的な「(客観的)認識」とは別の仕方での「対象」との関わり方を示そうとする。その関わりの仕方がまさに「顔」である。

「顔」は、「視覚」に基づく「客観的認識」では捉えられない「自体的なもの」である。さらに「自体的なもの」とは「みずからを語ること」であり「みずからを表出すること」である。この「みずからを~」というのは、「客観的認識」を可能にする「理性の光」を媒介せずに、それ自身として現れる事態であると考えられる。

ここにカント的な「物自体」と「現象」の区別を導入するとわかりやすいかもしれない。カントによれば、「認識」は「現象」を主観的に構成するにとどまり、その背後に潜んでいるであろう「物自体」に到達することは不可能である。そもそも「現象」と「物自体」の完全な分離を前提しており、両者が一致すること、いいかえれば、真理を完全に認識することは不可能である。だが、レヴィナスはこのカント的認識論から逸脱するような仕方で、つまり、「現象」と「物自体」が一致するような、「認識」とは別の仕方を「顔」に求めていると考えられないだろうか。

2.「言説」と「正義」

さて、レヴィナスは、「顔」はそれ自体で「言説」であると述べる。つまり、それは「話すこと」なのである。「話すこと」はそのまま「意味」をもたらす。

言説とは、意味の生起である。意味は理念的本質として生起するわけではない。意味は現前によって語られ、教えられるのである。

同書 p.106

なぜ「話すこと」がそのまま「意味」をもたらすのだろうか?そもそもレヴィナスのいう「意味」とは一体何なのだろうか?ただちにそのような疑問が浮かんでくる。だが、今回はその詳細に立ち入らない。目下重要なのは「正義」と「言説」の関係である。先に進むことにしよう。

〈他〉を知り、〈他〉に到達したい、という野心は、他人との関係のうちで成し遂げられる。他人との関係は言語の関係のうちに入り込んでおり、言語の本質とは、呼びかけ、呼格である。

同書 p.111

「発話」は相手への「呼びかけ」である。この「呼びかけ」によって「《呼び出されたもの》は、自己にしか準拠せず、何性をもっていない」。つまり、これまで述べてきた「自体的なもの」である。そして、このような「発話の現動性は、書かれた発話からはすでに奪われてしまったもの、すなわち統御〔=師であること〕をもたらす」。上述のとおり、「認識」の対象は《すでに乗り越えられたこと》である。いいかえれば、既知のものである。「認識」は対象を既知のもの、過去のもと、上の言葉でいえば《歴史的なもの》として処理される。そこにはもはや「現動性」は存在しない。他方で、「言説」ないし「発話」の「現動性」は「教え」をもたらす。

われらが師たる他人との関係が、真理を可能にするのである。かくして真理は社会的な関わりと結びつくのであって、この関わりが正義である。正義は、他人のうちに私の師を認めることにある。…正義は、他人としての特権、他人の統御〔=師であること〕の承認であり、レトリックの外部で他人に接近することである。

同書 p.116-117

普通「正義」と聞くと「複数の人格のあいだの平等」をイメージする。しかし、レヴィナスによれば、そのような「平等」は「貨幣を前提しており、すでに正義を依拠している」。レヴィナスのいう「正義」は「他人のうちに私の師を認めること」である。「師」は「発話」を通じて、私に「教え」をもたらす。この「発話」は「言説」である。「言説」と「正義」は不可分であるといえる。

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