スピリチュアルはトリックです
こんにちは"(*´˘` )♥(´˘`๑)"こんばんは
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ついてるついてるってつぶやく時に運なんてないよ。ついてるついてるとかの7言葉を教わって、熱心に聞き入ってたおじさんおばさんたちさ、、、。
教えてくれてるおじさんよりも、自分を好きか?違うよね?
自分よりも、教えてくれてるおじさんが好きだよね、、、。
そこがもうズレてるよ。だけどそれが完璧な現象なんだよね。
自分を後回しにして、感謝言葉言ったって、感謝の言葉だけが踊ってるんだもの、本質を見つけられないまま過ごすでいいのか?
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ゾロ目がラッキーの印なんて、トキメキ過ぎるなよ
2月22日がゾロ目だからって、ついでに2時22分もあてがって、「このゾロ目は見逃すな!」っていうサムネは、動画再生数稼ぐためのサブリミナルだよ、いい加減気づけよ、自称スピリチュアリストのふわふわスピラーさんたちよ。でもそれも完璧なんだよなぁ。
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私たちは光で愛です、って言うのは簡単だけど、パートナーやお金や、仕事、安寧の生活など、物理的に何かを得ることを目的とした活動のための、「光や愛です」って言ってることにも気づけよ。それでもいいんだけど、どうかもう惑わさないでくれ。でもそれも完璧な現れなんだよね。。。
あなたの「その闇を光で消しましょう」っていうけどさ、そもそも光そのものなら闇なんかとうに消えてるだろ?
だから闇ないんか存在しないじゃんか。矛盾にきづけよ。
闇にしてるのはさ、取り扱い方を闇化して恐れさせたスピリチュアル界のせきにんじゃんか?「ネガティブな感情や記憶」はあるのが当然なんだから、そのまま受け入れればいいものを、そのように教えてあげればいいものを、光の反対は闇なのでそんなものは必要ないもの、として「闇」として作らせたんじゃないか?
その世界観に救いを求める構造を作り上げ、大衆をジプシー化し何年も彷徨わせたスピリチュアリストたちは、もう引っ込んでくれよ・・・
追記:いや、私たちは、勇者で精鋭を感じたかった。だから彷徨いたかったんだよ。彷徨い続けて、思い出したとき、夢から覚めたとき、ホッとしたかったんだ。そんな物語が魅力的だったんだ。だからこれで良かったんだよね。
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愛の存在なんだったらなぜパートナーに愛されることをキャッチコピーにするのさ?愛することも愛されることもいらないじゃんか、何言ってんのさ、今のままで充分じゃん、それそのものが愛なんだから。
【愛】という言葉はスピリチュアル界によって都合よく解釈され、ポジティブなものを指すことになってしまってます。ちゃんとわかってます?
追記:愛って、すべてですよ。愛にいいとか悪いとかないから。
優劣も善悪も正邪も分裂もないよ。平和も争いも同等だよ。
うまいこと言ってそそのかさせれてることに、気づくのいつ?
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宇宙が応援してくれるっていうけど、その宇宙ってどこの宇宙だよ?(笑) しかも、どこどこの惑星出身で、帰還するのはもうすぐですって大真面目に語ってたスピリチュアリスト時代の私自身も恥ずいけど、、
そーか、宇宙意識のことか?意識だと言えばなんでも創れるんだもんね。
そんなもんに依存しなくてはならないほど、本質を見抜けなくなってる、ってことにどれだけの人が気づいてるんだ?
惑星なんか、あってもなくてもどっちでもいいじゃんか、宇宙なんかあってもなくても、正常に生きているじゃん、ご飯食べて、排泄して、眠って、起きて、笑ったり、イラついたり、喜んだり、不安になったり、その繰り返ししかないよ?
100億待ってたって喜びと不安はいつも一緒だよ。株を持ってたって、ゴールドを持ってたって、失うことは約束されてるんだよ、セキュリティに喜び、セキュリティに悩み、セキュリティを解し、セキュリティを改善して、その繰り返しだよ?安寧は自分でセットするんだよ、環境じゃないよ?
パートナーがいたって、あなたは留まることができないのと同じように、パートナーも留まることはできない。常に今を生きてる私たちは、留まらないことをデフォルトに設計されているから、進むしかない、その進む速度は、それぞれ異なるさ。
だからそのパートナーとは進む道がアップデートされることも手の内なのさ。もしかするとずーっと一緒だよ、の約束はなくなるかもしれません。でも、それの何が嫌なのさ?
スピリチュアルを学んだり、潜在意識を学んだら、行動しようとしても行動できない不要な思い込みや、足枷やつっかえと表現している何かがとれるから、途端に人生が思い通りになります。好きな人同士でいられるし、時間にも経済的にも縛られなくなり、嫌なことがなくなります。当然嫌いな人もいなくなる、好きな場所で、好きな時に、やりたいことができるんです!という触れ込みとかって確かにそれもありだけど、それって分離の世界を際立たせてるんだよね?
分離の世界をやめようと意識しておいて、やってることは分離を強化してるんじゃん、おかしいってスピリチュアル。
そんな憤りが湧いてきたのを止める理由は私にはありません。
私が幼少期に母親に連れられて行った母の愛してやまない信仰する宗教◯光もおんなじこと言ってました。大嫌いな場所です。宗教の存在は否定しないけど、子どもに決定権を与えない母親の支配という行為は許し難いものです。周りの子はやってないのに私だけやらされ、そして厳しく監視されてうまくできないと注意される。もしも母親が信仰などしなかったらこの記憶は生まれなかったのに。
幼少期からの叱責の記憶は人生を暗く重いものにすることがわかっています。
こころが重いものを軽くするために、私の記憶や体験が誰かの役に立つなら本望です。だから親に告ぐ。できれば、母親は感情的にならないでもらいたい。母親と子どもの人生は異なるのだから、全尊重しかない。
さて20年前は、多くの人が振り向かなかった精神世界のこと、目に見えない世界、霊という単語を毛嫌いされ、神様という言葉はほぼ神社限定で使われるものでした。しかし宗教◯光は自分とこが世界最高峰の元一つであるといいはる教団ですから、自分とこが神であると、うそをうえつけてきました。自分とこから分離した似たような教団、脱退していった厄介な人物に対しては、もう来ないでくれって言います。それのどこが愛なのさ?元一つなのさ?笑っちゃうほどおかしいでしょ?
掛け軸みたいな◯のところに神様がいると教えられ、眉間を床につき、ひれ伏し、生きていることの罪を詫びることから始まります。その詫びる事さえも許された、という考えですから、信者は選ばれしものという教えです。
そんなことを鵜呑みにして、選ばれしものだから、ノアの方舟に乗れるんだわとキラキラする人もいました。うちの母親ですけど(笑)、しらけてる私はそんなことあるワケないだろ、と母親を見下していました。
奉仕とは、手をかざし施光する事で罪滅ぼしを許されるという教えです。奉仕をできたことは神の赦しがあったからこそであり、そのことに眉間を床につけひれ伏し、深く感謝をして1日を締めくくれということです。
その教えは、わたしを大切に守るものだと言いました。
しかしわたしは、【守られてる】気なんて一度たりとも感じたことはありません。レイプも痴漢もされ、事故にも遭うし、親の言いなりになってあんな崇教◯光なんかやってたって楽しくもない、幸せでもない、余計に生きづらくて、自分の存在を恨む日々でしたから。
ですから、スピリチュアルで言う、「私たちは光で愛の存在です」と言う時ーーそこには、大いなる宇宙の意識、創造者の神様のワケ御霊です、という大前提がくっついていますが(多分)、その『ワケ御霊』という単語も受け入れられない時代でした。『魂』という響きも怪訝な顔され塩を撒かれました。一般人のほとんどが目を合わせて口を揃えて、「目に見えない世界を否定する時代」がありました。
当然我が子の発達障害も自閉症スペクトラムも、慰謝料のもらえないシングルマザーも、世間からは否定されました。泣く3才の息子を置いて面接に行った時も、面接官からはシングルマザーである私を揶揄してきます。屈辱を覚え社会の凄まじい圧力に嫌気がさし未来を消したくなりました。
私の幼少期の、親からの支配や体罰も【とはいえ育ててもらったんだし、今いるのは親のおかげでしょ】、と周りからは一蹴されつまり私の意見は否定され、レイプも痴漢も、【あなたに隙があるからよ】と言う一文を投じられてしまいます。
それなのに、いまはスピリチュアルブームです。
すごい変わりようです。魂という響きが当たり前になっています。
風の時代とも言います。どうしてそう言えるのか私には分かりません。
あの時こんなクソみたいな時代を経て、と思い最大限に自分を嫌っていた私は、幼少期からの悲しみを背負い、奪われたポテンシャルの「上の層」って言ったらわかりやすいでしょうか?そこらあたりに悲しみと怒りの幕を張っているのですから、「潜在意識」と「引き寄せの法則」「自愛」だけで人生変わるなら!!と藁にも縋り、そりゃスピリチュアルにハマりたくもなります。
スピリチュアルブームがあるのは、このように自覚できない悲しみの経験を持ってる人、そういう人が多いことの証でもあるということです。
人より抜きん出ていることを嫌う民族性があるために、どれだけ足並み揃えることが重要か、を暗黙の了解で実行するのが、正しいことだ、と隷属教育をされてきましたから、そう倣おうとするのです。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感、サブリミナルなんですよ。
春になるとこぞってベージュカラーのトレンチコートは駅のホームに列をなします。夏になると?夏は覚えてない、秋になると大衆はどうでもいいパンプキン🎃化、冬になると国全体が黒いコートで街が染まり、やがてキリスト教になる、という、、、
所詮商戦に召喚されているだけなのに、驚くことにあの人も?あの人も?と年々増えていく人間のXmas化は、五感にアプローチしてきます。
誰かと同じことをしていることに安心感を得る、というこの国の教育は隷属意識を細胞の核に烙印させ、思考停止からポテンシャルを奪うことの成功を果たしたといえます。それは狂気の沙汰です。という捉え方を私はしています。
狂気の沙汰と表現するのは、条件が存在します。
常軌を、逸脱していること、を狂気と言いますから。
では常軌とは?→常、です。常ならば、隷属意識が植え付けられた日本人はそれ=隷属意識(国が作ったロールモデル、他人が作ったサクセスストーリーも含みます)が常なので、常軌を逸脱した、ことにはなりません。
ということは大衆は、隷属意識がありポテンシャルを奪われた(風を装い)、誰かと同じことをして、誰かと同じ色をしていることには全く疑問を持たない民族性である、ということ。それは常、なので、今日も、狂気の沙汰だとは思いもしまい。
ではなぜ私が、狂気の沙汰だと述べるのか、、、。それは、今日も自分のジプシー癖に気づかず、奪われたポテンシャルに気づかず、スピリチュアリストたちによって、スピリチュアル界によって、闇化させたネガティブな感情や記憶に向き合うことを、都合よく避けさせる言葉の
【光で癒しましょう】
【瞑想しましょう】
【好きを仕事にして稼ぎましょう、そうすれば生活は安泰です】
それらは始めにそう意識するだけで宇宙が発動します、そうして癒されます、そうして現実が変わります、という呪文を信じていることをやめてほしい願いがあるからです。
私は、全体を見ています。すべてにおいて流れを見て考察を続けています。分析し、合理性を割り出します。考察が好きなのでこうして述べる場がありとても感謝しています。
スピリチュアルに縋るのはやめよう、と今は言いたいのです。
でもスピリチュアルに縋ってもいい、やがて思考は崩壊し気づくのだから。
それも完璧なプログラムです。
スピリチュアルのいいところは、自分のありのままを見つけて受け容れることができるとこです。ありのままを見つけたら思考に翻弄されることもなく、良いも悪いもないことが分かり、許し難いことは観察し、平和が訪れます。
その先にも、まだ道がありましょう。
今日も読んでいただきありがとうございました。
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