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潜在意識と意味づけと思考を止めろ!のお話

この記事の要約は以下のとおりです。

1. 抵抗感の根源:母親の新興宗教

  • 意味づけへの抵抗: 母親が新興宗教に傾倒し、あらゆることに「意味づけ」を施していたため、筆者はこの言葉に強い抵抗感を持つ。

  • 疑問の否定: 子供の頃から母親の解釈に疑問を持っていたが、それを投げかけると怒号で否定された。

2. 宗教と一般社会の矛盾

  • 宗教の都合の良さ: 母親の宗教的解釈が通るのに、一般社会では通用しないことに対する不信感。

  • 社会とのギャップ: 宗教の教えが正しいならば、一般社会にも浸透しているはずという矛盾に気づく。

3. 子供のフラストレーション

  • 行き場のないフラストレーション: 理解されない思いが溜まり、母親への反抗として現れる。

  • 癇癪と霊障: フラストレーションが癇癪として表れ、新興宗教ではそれを霊障と解釈された。

4. 被害者意識の形成

  • 反抗できなかった自分: 反抗しきれず、自己否定に繋がる。

  • 周囲の無理解: 社会や周りの人々が自分を尊重してくれないことに対する恨み。

5. 母親への依存と気づき

  • 母親のせいにする: 長年、母親のせいで不幸だと思い込む。

  • 自覚と認知: 自分で悲壮感を容認していたことに気づく。

6. 被害者意識の本質

  • 被害者意識の好都合: 被害者意識は自分を守るための手段であり、甘えたい気持ちの表れ。

  • 健気さの認識: 被害者意識を持つ自分を健気で可愛いと認識する。

7. 自動思考とトリガー

  • 思考の自動性: 思考や感情が自動的に湧き上がることを認識。

  • トリガーの存在: 外的要因が思考や感情を引き起こす。

8. 思考停止の流行

  • 思考を止めろ: 現在の風潮としての思考停止についての懸念。

9. 探究と幸せ

  • 探究の喜び: 自己探究が終わらないことを至福と感じる。

  • コントロールの幻想: 人生をコントロールできると思い込むことの虚無感。

10. 結論と新たな視点

  • 意味づけと思考停止の掘り下げ: 今後もこれらのテーマを掘り下げていくことを予告。

  • 自分との対話: 一日10分の自己対話の勧め。自己探究の重要性と、それによる自己成長。


私が ①【意味づけ】という言葉に対する抵抗感は半端なくてですね、これは新興宗教に興じてた母親のおかげでもあります。中学生の頃から母親の解釈に疑問を持っていました。しかし投げかける疑問は「神様に向かってつべこべいうんじゃない!!揚げ足ばっか取ってるんじゃない!」の怒号と共に睨みつけられ、純粋動機な好奇心が、疑問は愚問と化し空中へ消えていきました。消えたと思っていた当時の愚問は、スピ的に言うならばエネルギーとして存命していたという解釈にもなります。それは都度思い出した、というか湧いてきたのだから・・・。でもそれは起きてきたことなのですよ。

突如として思い出すんですよ、あの頃のあの母親の解釈って、意味づけだったよな・・・宗教って都合いいな。「神様が仰るんです、神様の本にそう書いてあるんです」って言えば、通せないものも通せるんだもんな、、、大人ってずるい!と腹が立っていました。子どもの頃は深い思考ができなくて、言葉そのものを真に受けるから、大人たちのいう不思議な解釈はたくさんありました。神様の言ってることが良くて、なんで一般の人はダメなの?って思うんです。一般社会が成り立っててその中に宗教があると思っていましたから、新興宗教の教えが良いならそれは、一般社会にも浸透しているはずなのに、一般の人が知らないのはおかしいよね?と思うんですよ。一般の人が知らないことを神様という言葉に乗せて正当化させているそのギャップのストレスを抱えてても、そこを自分ではどうにもフォローできなかったし、もちろん親も周りもそのことに触れることなくただ通り一遍に「神様の本に書いてあるからそれが本当のことなのです」というフレーズで全てを集結させてしまう、、、宗教って強引なんですよ。(だからそれとほとんど似てるなって思うスピリチュアルの見解は、目には見えない世界だからこそ「潜在意識」を正当化しているのでは?と考えたのです。)

子供の頃のフラストレーションは行き場がなくて、常に私の中で蠢いていたんだと、今ならそんな解釈もできます。そのフラストレーションは母親への反抗として言葉や態度に現れますが、癇癪持ちに映るか、霊障と言われる霊が憑依しているから新興宗教による手かざしてクリーンアップする必要があると言われていました。霊に失礼とも思っていました。(今じゃ霊も作り物だと断言できるようになりましたが。)

反抗したってグレることはできませんでした。そんな自分を「意志が弱い」とか「ダメな自分」と思うことで、社会や周りの人たちが私を尊重してくれない、認めてくれないという恨みに変化させ、悲しみが付き人のような悲壮感溢れる人生を送らせたんだな、と思えます。自分で送らせたのですよ。

ちょっと前まで当然でしょ、母親のせいで送るハメになったんだからと思い込んでました。それを自覚してそういう生き方してたんだ・・・と認めることは簡単なことではないです。だから何十年も同じようなことを繰り返して、生きることが苦手としてしまう。生きることが当たり前なのになぜ自分は当たり前に生きることを「楽」と思えず「苦手」としているのか、、、意味がわからない。これは母親のせいだ、あいつのせいだ、可愛いこどもに向かってこんな「苦しみ」を残すなんて非情だ!というものを感じることで、ストーリーはドラマチックに展開していきますからね。そうは言っても最終的には「あ、人のせいにしたくてしてただけだったんだ・・・」と気づける、認められるというフローになっていると思います。

もっと早くに「付き人の悲しみを解雇する」こともできただろうに、解雇せずに「いていいよ」と悲壮感を容認していたのは、母親のせいにするのが私という存在にとっては好都合だからですよね。自意識過剰の私という存在は被害者意識が好物でした。被害者意識は加害者を作り、加害者によってこちらの権利の侵害や損害を受けたと訴えることができますから、それは弱々しくて自分では生きる力がないの・・・だから守ってほしい、なんとかしてよ・・・「ねえ、お母さん」ってことを本当は言いたいのではないかな?と思います。私は甘えたい時に甘えられなかった名残だとも思います。そうだとしたら私はなんて健気で可愛いんだろうと愛おしく尊くなりました。

被害者意識の字面だけ見ると嫌悪したくなりますが、裏側を見ると、だって被害者意識を持つにはその理由があったんですから、(←原因と結果だね、という言葉で括らないことです=こういうとこを、知ってる言葉で括り始めるからストーリが展開していくんで)そこは受け止めてあげたらいいですよね。受け止めるだけでいいのに、そこを嫌悪して見ないのは、冷たいじゃない? まるで下りのエスカレーターに乗りたいんだけど怖くて一歩が踏み出せず困ってる人を無視しているような感じ・・・。そっと一歩寄り添ってあげるだけでいい。

ねえ、お母さん、私はあなたの愚痴をたくさん聞いてあげたのよ。なのになんでお母さんは私の愚痴を聞いてくれなかったの。私はお母さんが幸せでいらるようたくさんお母さんのご機嫌とってきたの。来る日も来る日もね。小さい体と出来上がっていない未熟な脳で必死にあなたに仕えた。なのになんでお母さんは私の言う意見を半分も聞かないうちに行ってしまうの?そんなにお詫びを毎日しろって規律を守らせる神様とかいう掛け軸みたいなのが大事だったの?あんな掛け軸と私とどっちが大事なの?私が一番大事だったんじゃないの?

こうして好機を迎えると、例えば理不尽な嫌なことがあったりすると、隠しておいた本音がこのようにブワブワと溢れてくるわけです。それは高級な好機とも言えましょう。それは起きてきたことですから。起こそうとして起こしたのではないのですからね。そして完全に、私の中から「悲しみの付き人」は解雇できたわけです。不完全だと思っていた私に長年就いてくれた悲壮感出す悲しみよ、お疲れ!これからはナチュラルな悲しみで会おうね。

嫌なことがあることが幸せだというのは、こういうことを指します。この一連のフローは何年もかかっています。内観という自分の意識に向き合うことを始めてから6年は経つので「ねえ、お母さん、本当は甘えたかったよ」という気持ちが6年を経て自覚の度合いが深くなる、ということですね。私はこれですっきりしました。だからこそお母さん嫌いっていう感情そのままにしてあげてます。被害者意識持っててもいいし、あの人嫌いって思っててもいいし、意味づけに抵抗してもいい。それはストーリーの一部でしかないんだから。そしてこれがストーリーの一部だって分かってて、ノージャッジでいるなんて、とっても軽やかで幸せです。贅沢の極みだなって思っています。贅沢という言葉の意味がよくわからないけどw

私たちは、もちろん思い出そうとして思い出すこともありますが、大抵の場合思い出す前にワンクッションもツークッションも何かが『湧き上がって』きていると思うんです。トリガーはいつもどこかからやってきます。トリガーを寄越せとは言ってないのにも関わらず。出来事も思考や思いが、勝手に湧き上がってきます。自動思考の始まりでもあり、起きてきています。蒔いたタネの芽が出るとこを偶然目にした時のように、セレンディピティだらけなんだと思うんです。

その自動思考ですが昨今 ②【思考を止めろ】も流行っているので多少の憂慮を感じますが・・・。字面で「思考を止めると幸せになる」風潮は、思考は現実化するって言ってたアレや、いい気分でいれば叶うって言う引き寄せの法則の、「潜在意識を使えば幸せになる」と同じじゃない?

まるで🆕商品のお菓子のように、私たちの世界はくるくるとこうやって毎瞬変化しています。その変化は私たちがそうなれ!と意図したりコントロールしたものではありません。

心理学を活用したスピ的見解の世界では、集合的無意識がそのようにさせていると言っています。集合的無意識というのも概念でしかないのに、実体があると思い込んで、それを確立させる世界の動きに乗っかって私もその昔、ええ潜在意識を信じていた時ありますから、潜在意識を使いこなせばいいんだ!って真剣に実験していた時はまさに疑うことなく、集合的無意識が、世界の流れを作ってて宇宙と共振共鳴しているからこそ、現実に映し出されているんだ!と頑なに思っていたわけです。

ここで注釈しますけど、何も潜在意識があるとかないとかをはっきりさせようぜ、的なことは言ってないんですよ。どうやら私が思うに「ないんじゃない?」なだけです。「ない」起点の考察をしているだけです。でも、それ「潜在意識がある」にすると、物体という物理現象を確定、確実にするために必要な意味づけじゃん、、、という人間サイドが人間仕様のために作った言葉という意味です。伝わります? (平安時代には潜在意識という概念がありませんでした、多分。)

たまらん至福ですね。この探究が終わらない感じ。一通りの探究が終わって暇になって、暇過ぎたら願ったことのないブラック企業に就職して、でも大事にされてw、また探究始めてるっていうシーン。私は幸せだよ。この人生大好き。私は私が愛おしい、だがしかし事を起こしている私はいない。

私たちは一度だって、人生をコントロールしたことがありません。コントロールしてきた、と思いたいから思っているだけで、実際にはコントロールしていないことを知る日は、ある種の落胆に似た虚無感を覚えましょう。落胆に似た虚無感も必要なことだと思います。その時が来るまではそうではない対極にいることもあるわけですから一度も留まってはいない。

①意味づけのこと
②思考を止めろのこと

二つのことはもう少し掘って書いていきます。
一日10分、自分とお話しして甘えさせるのは素敵なことです。
たった10分の365日です。すごいことです。

今日も読んでいただきありがとうございました。😊

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