捨て垢という皮をかぶって
恵比寿駅から徒歩15分ほど歩かないとたどり着けない微妙に不便な美容室に、もう3年も通っている。
居心地の良い美容室というのは、むやみに話しかけずとも、美容師の腕に自身の毛髪を託せるか否かということなのかもしれない。
誰の言葉か?わたしだ。
ここでは会話をキャッチボールのように続けなくてもいいのだ。コミュニケーションが極端に苦手なわたしにとってこれほどありがたいことはない。
それから、もう一つこの店を選ぶ理由がある。
それは他のどの理由よりも明確だ。
彼らはわたしを独身だと思っている。
無駄な会話をほとんどしないので、彼らはわたしのプライベートなどほとんど知らない。結婚指輪も無い夫婦なので、私が結婚していることも、子供がいることも、彼らは知らない。
だから、多少発生する会話の端々でわたしを独身と想定した会話が放り込まれたりする。
それが実は結構楽しい。
あの店でのわたしは、婚期を逃し、仕事に邁進し、たまに「結婚したい!」と呟くオーバーサーティOLなのだ。
Twitterの捨て垢みたいな人格が好き勝手に受け答えする。
なんだか気持ちは楽になるし、日常から一時的に解き放たれている時間がたまらない。
年に4〜5回しか行かないのだけれど、それが私のささやかな楽しみなのだ。
それが、ある時一変する。
夫が結婚7年めにして、私の誕生日に結婚指輪を贈ってくれたのだ。シンプルなピンクゴールドの指輪はいつ測ったのか、左手の薬指ににぴったりと収まるサイズだった。
外すことを想定していないくらい、本当にぴったりなので(どうやって測ったのかわからない)私は美容院へも指輪を身につけて行くことになった。
「あ、もしかして、ご結婚ですか?」
美容師は目ざとい。
ふとした瞬間に、私の左手の薬指できらりと光を放つ新品のカルティエを見つけた。
「うふふ、そうなんです。」
こうして私の捨て垢はめでたく既婚者となった。
まれに呟く「結婚したい!」という捨て垢の願望は、図らずも結婚7年目のリアル夫によって叶えられた。
「おめでとうございます。」
担当してくれた美容師は、そのあとは黙って淡々と私の髪を切る。
さようなら、わたしのエセ独身時代よ。