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ベンチャー企業の移転は、ほぼ婚活
ベンチャー企業というのはやはり業績に左右される決定事項が多いためか、必然的にヤドカリのように2、3年たつと新しいオフィスを探すことになる。
実際に移転するかどうかは別として、オリンピックより短いターンで検討をすることになるのだ。
特に120坪以上のオフィスなら定期借家契約であることが多いので、有無を言わさず坪単価は上がり続ける。
また人材の増減も激しい。それはまるで細胞の新陳代謝のようにドバッと入社し、ドバッと退職。これも茶飯事である。
先が読めないからこそ、夢をのせた新規事業がいくつも立ち上がり、そして数多のプロジェクトが頓挫する。稀に当たれば、それはまた人員増になり、会議室が足りなくなり、休憩スペースはつぶれ、挙句は座席さえも満足に用意できなくなり、管理部の腰高キャビネの上にオフィスグリコは追いやられる。
こういう要因があって、移転というのは度々検討テーブルの上にゴソゴソと上がってきては、総務担当者に向かってこういうのだ。
「さあ、どうする?」と。
さて、我が社の話をしよう。
例によって例の如く、わたしは一昨年の秋ごろからこの問題に直面していた。
きっかけは賃料の値上げであったが、折衷案が見つからず、とりあえず半分独断で物件情報を集め始め、早一年半。
結果としてオフィス不動産メンヘラ総務が爆誕したのである。
特に、中央区、品川区、港区、目黒区、渋谷区周辺のオフィス不動産に異様に詳しくなってしまった。
一体どこに運命の物件はいるの?と。
物件資料をティンダーのようにめくり、ビルを結婚相手のスペックのように比較し、資産除去債務を結婚式資金のように見比べる資料を作りまくった。
まるで婚活に全力を注ぐ乙女そのものだ。
◻️
いよいよ、決断が迫られた時、一つの素晴らしい出会いがあった。
今のオフィスがあるエリアから数ブロック離れたところで、坪単価も申し分ない。何と言っても居抜きである。
まるで条件ぴったりの男とマッチングアプリで知り合えた時のような高揚感。
私は彼こそが運命だと感じた。そう思わずにはいられなかったのだ。(オフィスの話です)
彼は少し控えめな笑顔で、自分の坪単価と、築年数を教えてくれた。
それに、立派な経歴の両親(デベロッパー)を持ちながらも、嫌味なく、その品の良さだけが際立って美しい。
彼を代表含め経営陣に会わせた時(内見に行きました)、言葉にしがたい緊張感を感じていた。
その帰り道、両親(経営陣)が、「いい男じゃないか」と言ってくれて、もう本当に、心の底から彼と結婚したいと願う自分がいた。(オフィスの話です)
「彼がいいわ、きっと彼となら幸せになれるもの!」
居抜きのオフィスなら費用もそんなにかかりはしないし、なにより中央区のくせに控えめな坪単価と、嫌味なく漂わせる高級感がたまらない。
そのうちに、私は彼にすっかり夢中になってしまった。彼と一緒に暮らす時に用意する家具のテイストだとか、家事の分担方法だとか。
とにかく彼と共に暮らす幸せな未来を描くだけで、言葉にしがたい多幸感に包まれていた。
両親も、彼との結婚には大いに賛成してくれた。
真面目だけどチャーミングな彼に、いつもならあれこれ厳しいことを言う両親も、虜になりつつあったのだ。
けれど、私が夢見た甘い蜜月は、ほんの数日で見るも無惨に砕け散ってしまった。
「もしもし?」
やけに暖かい年末の午後、彼から突然の連絡が入った。彼の第一声がなんだったか忘れてしまったけれど、とにかく声のトーンから、悪いニュースを伝える時のそれであることはすぐにわかった。
「ねえ、私と別れたいの?」
彼が切り出すよりも先に、私が尋ねてしまった。
なんて可愛くない女だろう。その一言が目一杯尖っていたことは自分でもわかっている。
傷つきたくない一心だった。願わくば、私の問いに「違うよ、バカだなあ」と言って、あの少し照れくさそうな声で答えて欲しかった。
けれど、悪い予感というのは本当によく当たる。
「ごめん、本当に。君とは結婚できない。」
この瞬間に、まだほんの少し残っていた希望も綺麗に砕けてしまった。
後のことはよく覚えていない。泣きながら、どうして?とか、悪いところは全部直すから、とか、本当にみっともない女みたいな押し問答をした。
聞けば、同時期にマッチングした別の女と結婚をするらしい。もう結納の話まで進めているのだという。
相手は育ちの良いお嬢さんで、私に勝てるところなんてひとつもなかった。
彼女のことを差し支えない程度に尋ねたけれど、聞けば聞くほど自分が惨めになる。
どうして、神様は私と彼を出会わせてしまったの?
そう思わずにはいられない。泣きながら男に縋る日が来るなんて、思ってもみなかった。
電話を切る間際、私は小さな声で「ばかやろう」と呟く。きっと彼には届かない。
こんなに傷ついてボロボロになってしまったことも、最初で最後の強がりも。
このことはすぐに両親にも伝えた。ひどくがっかりしていたし、それに、私と同じように、どうにか縋れないかと言ったけれど。
「もう、どうしようもないの…」
そう言うだけで精一杯だ。
あとはとめどなく流れる涙を、仲介会社からもらった年末挨拶の手拭いでぬぐった。
◻️
こうして、彼との結婚話は煙みたいに消えてしまった。
今でも胸をよぎるのは、控えめに、上品に微笑む彼の顔だ。
きっとまだ、私は彼に恋しているのだと思う。報われることのないこの思いを抱えて、次の出会いを探すなんて。
自分に都合のいい男を、条件だけで探していた天罰なのかもしれない。
それでも私はまた、マッチングアプリを開いて結婚相手を探す日々に戻るしかない。
ベンチャー企業の総務とは、そういうもなのだから。
※移転のはなしです