2020東大国語/第1問/解答解説
【2020東京大学/国語/第1問/解答解説】
出典は小坂井敏晶「『神の亡霊』6 近代の原罪」。
〈参考 平成31年度東京大学学部入学式 祝辞〉
〈本文理解〉
①段落。学校教育を媒介に階層構造が再生産される事実が、日本では注目されてこなかった。米国のような人種問題がないし、英国のように明確な階級区分もない。…そんな状況の中、教育機会を均等にすれば、貧富の差が少しずつ解消されて公平な社会になると期待された。しかし、ここに大きな落とし穴があった。
②段落。機会均等のパラドクスを示すために、二つの事例に単純化して考えよう。ひとつは戦前のように庶民と金持ちが別々の学校に行くやり方。もうひとつは戦後に施行された一律の学校制度だ。どちらの場合も結果はあまり変わらない。見かけ上は自由競争でも、実は出来レースだからだ。だが、生ずる心理は異なる。貧乏が原因ならば当人のせいではない。批判の矛先が外に向く。対して自由競争の下では、成功しなかったのは自分に能力がないからだ。社会が悪くなければ、変革運動に関心を示さない。
③段落。アファーマティブ・アクションは、個人の能力差には適用されない。人種・性別などの集団間の不平等さえ是正されれば、あとは各人の才能と努力次第で社会上昇が可能だと信じられている。だからこそ、弱肉強食のルールが正当化される。「不平等が顕著な米国で、社会主義政党が育たなかった一因はそこにある」(傍線部ア)。
④段落。子どもを分け隔てることなく、平等に知識を培う理想と同時に、能力別に人間を格付けし、差異化する役割を学校は担う。そこに矛盾が潜む。出身階層という過去の桎梏を逃れ、自らの力で未来を切り開く可能性として、能力主義(メリトクラシー)は歓迎された。そのための機会均等だ。だが、それは巧妙に仕組まれた罠だった。平等な社会を実現するための方策が、かえって既存の階層構造を正当化し、永続させる。…近代の人間像が必然的に導く袋小路だ。
⑤段落。(子どもの多様さについて)。
⑥段落。近代は神を棄て、〈個人〉という未曾有の表象を生み出した。自由意志に導かれる主体の誕生だ。所与と行為を峻別し、家庭条件や遺伝形質という〈外部〉から切り離された、才能や人格という〈内部〉を根拠に自己責任を問う。
⑦段落。だが、これは虚構だ。才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。…能力も遡及的に分析してゆけば、いつか原因は各自の内部に定立できなくなる。社会の影響は外来要素であり、心理は内発的だという常識は誤りだ。認知心理学や脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。外因をいくつ掛け合わせても、内因には変身しない。したがって「自己責任の根拠は出てこない」(傍線部イ)。
⑧段落。(能力差を自己責任とみなす論理は、身体障害者を当人の身体であるがゆえに自業自得だと言う論理と同じ)。
⑨段落。封建制度やカースト制度などでは、貧富や身分を区別する根拠が、神や自然など、共同体の〈外部〉に投影されるため、不平等があっても社会秩序は安定する。
⑩段落。対して、自由な個人が共存する民主主義社会では平等が建前だ。しかし現実にはヒエラルキーが必ず発生し、貧富の差が現れる。平等が実現不可能な以上、常に理屈を見つけて格差を弁明しなければならない。だが、どんなに考え抜いても人間が判断する以上、貧富の基準が正しい保証はない。〈外部〉に支えられる身分制とは異なり、人間が主体性を勝ち取った社会は原理的に不安定なシステムだ。
11段落。支配は社会および人間の同義語だ。子は親に従い、弟子は師を敬う。…ところでドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが『経済と社会』で説いたように、支配関係に対する被支配者の合意がなければ、ヒエラルキーは長続きしない。強制力の結果としてではなく、正しい状態として感知される必要がある。支配が理想的な状態で保たれる時、支配は真の姿を隠し、自然の摂理のごとく作用する。「先に挙げたメリトクラシーの詭弁がそうだ」(傍線部ウ)。
12段落。近代に内在する瑕疵を理解するために、正義が実現した社会を想像しよう。階層分布の正しさが確かな以上、貧困は差別のせいでもなければ、社会制度の欠陥があるからでもない。まさしく自分の資質や能力が他人に比べて劣るからだ。公正な社会では自己防衛が不可能になる。理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界だ。
13段落。身分制が打倒されて近代になり、不平等が緩和されたにもかかわらず、さらなる平等化の必要が叫ばれるのは何故か。人間は常に他者と自分を比較し、比較は必然的に優劣をつける。民主主義社会には本質的な差異はないとされる。だからこそ人はお互いに比べあい、小さな格差に悩む。そして自らの劣等性を否認するために、社会の不公平を糾弾する。〈外部〉を消し去り、優劣の根拠を個人の〈内部〉に押し込めようと謀る時、必然的に起こる防衛反応だ。
14段落。自由に選択した人生だから自己責任が問われるのではない。逆だ。格差を正当化する必要があるから、人間は自由だと社会が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。「近代は人間に自由と平等をもたらしたいのではない。不平等を隠蔽し、正当化する論理が変わっただけだ」(傍線部エ)。
〈設問解説〉
問一「不平等が顕著な米国で、社会主義政党が育たなかった一因はそこにある」(傍線部ア)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60程)
理由説明問題。理由の始点「米国」と終点「社会主義政党」をそれぞれ具体化して、両者をつなげばよい。「社会主義政党」については直接言及はないが、傍線部に「不平等が顕著な米国で、社会主義政党が育たなかった」とあるから、逆に普通は「不平等な社会なら育つもの」と捉えられる。これに、社会主義についての広義の一般理解を加えると、「社会的不平等を公的に是正することを目指す政策集団」(A)と導ける。
「米国」については、指示語「そこ」に従い、傍線前文「だからこそ、弱肉強食のルールが正当化される」の前の二文「アファーマティブ・アクションは、個人間の能力差には適用されない/人種・性別など集団間の不平等さえ是正されれば、あとは各人の才能と努力次第で社会上昇が可能だと信じられている」が参照できる。つまり「集団間の不平等の是正により各人の社会上昇が可能だと信じられる米国では、個人間の能力差への過度な介入は不要。むしろ自由競争(②)を妨げるので避けられるべき」、よってAは育たなかった、という論理になるだろう。
〈GV解答例〉
集団間の不平等の是正により各人の社会上昇が可能だと信じられる米国では、個人間の能力差の公的是正は自由競争にそぐわないとされるから。(65)
〈参考 東大現代文P解答例〉
集団間の不平等を正せば、自由競争下で結果は各人次第とされ、弱肉強食が正当化されて、社会変革への関心は生まれないから。(58)
〈参考 S台解答例〉
機会均等に基づく自由競争の下では、現に存在する格差は個人の能力に帰せられ、是正のために社会を変える必要はないとされるから。(61)
〈参考 K塾解答例〉
機会均等に基づく自由競争が自明とされる米国では、勝敗の原因が個人の才能と努力に帰され、格差を生む社会構造を変革する気運が醸成されないから。(69)
〈参考 Yゼミ解答例〉
機会均等に基づく自由競争を信じる米国では不平等は個人の才能と努力の結果とされ、その原因を階級差に求める思想は受け入れ難かったから。(65)
〈参考 T進解答例〉
自由競争が保障され、能力による層化が正当視される社会では、社会的挫折の原因は本人の能力の低さに帰せられ、社会変革の必要性の認識は共有されにくいから。(74)
問二「自己責任の根拠は出てこない」(傍線部イ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。(60程)
理由説明問題。「何について」自己責任の根拠は出てこない、のか。前段⑥段落より、「近代が生み出した表象である個人において、所与と行為を峻別し、外部=所与から切り離された内部を根拠に自己責任を問う」(A)ことについて、である。では、なぜ「自己責任の根拠は出てこない」(傍線部)のか。
傍線部は、⑥段落を「だが」で承けた⑦段落の末文にあり、「したがって」に導かれている。よって「したがって」の直前の「外因をいくつ掛け合わせても、内因には変化しない」(B)を軸に⑦段落の要点をまとめればよい。解答では、⑦段落3文目「才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される」(C)を重視した。以下の記述は、Cから派生する細部の補足だからだ。「Aについて、BCだから」という形でまとめるとよい。
〈GV解答例〉
近代の表象たる個人の行為を所与と分離し責任を問うとしても、その原因を遡れば結局、外来の遺伝形質と社会影響の相互作用に帰着するから。(65)
〈参考 東大現代文P解答例〉
人間はすべて外因に由来し、近代の人間像である自由意志に導かれる主体に自己責任を取る根拠としての内因は、虚構であるから。(59)
〈参考 S台解答例〉
人間のあり方はすべて外部に原因をもち純粋な内部などありえず、自由意志によって行為する主体としての個人とは虚構だから。(58)
〈参考 K塾解答例〉
近代の個人は自由意志に基づいて行為するとされるが、現実には、才能や人格、さらには意志すらも遺伝や環境など外的要因によって形成されるから。(68)
〈参考 Yゼミ解答例〉
自己責任論は責任を個人の内面に求めるが、内面的な意志や意識そのものが既に外部からの記憶と情報の相互作用によって形成されているから。(65)
〈参考 T進解答例〉
近代において主体性を持つ個人の責任を問う根拠となった才能や人格などの内的要因は、実はそれと切り離された外的要因の影響を回避できないから。(68)
問三「先に挙げたメリトクラシーの詭弁がそうだ」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60程)
内容説明問題。「先にあげたメリトクラシーの詭弁」(A)と「そう」(B)を具体化する。注意すべきは、AとBは類比の関係にあるが、AはB(一般)に含まれる個別的事例であるから、それぞれ分けて説明する必要があるということだ。Bは直前部、Aは④段落にあることは見やすいが、両者が類比になるように比べながら具体化・焦点化していく。
Bについては「支配関係に対する被支配者の合意がなければ、ヒエラルキーは長続きしない/支配が理想的な状態で保たれる時、支配は真の姿を隠し、自然の摂理のごとく作用する」、Aについては「平等な社会を実現するための方策が、かえって既存の階層構造を正当化し、永続させる(→詭弁)」を拾う。その上で、両者を寄せて、A「平等を名目に/階層構造を強化」、B「被支配者の合意を装い/支配関係を不可視化」とすればよい。解答では「Aであるメリトクラシー(能力主義)は/Bである機制(メカニズム)の現れだ」として、両者の「個別/一般」の関係を表現した。
〈GV解答例〉
平等な社会の実現を唱えながら既存の階層構造を強化する能力主義は、支配関係を被支配者の合意に装い不可視化する機制の現れだということ。(65)
〈参考 東大現代文P解答例〉
能力主義は、平等な社会を実現すると標榜して被支配者の合意を得て、逆に既存の階層構造を正当化し永続させるということ。(57)
〈参考 S台解答例〉
能力主義は、現にある格差を平等な原理に基づく帰結だと納得させ、既存の階層構造を正当化し永続させるものだということ。(57)
〈参考 K塾解答例〉
平等の実現を唱えて個人の能力を重視すれば、能力の優劣にによる支配・被支配の構造をもつ不平等社会が、自明の制度として確立してしまうこと。(67)
〈参考 Yゼミ解答例〉
個人の能力を重視する能力主義は、平等主義を唱えながら格差の根拠を能力差に求めることによって、格差社会を正当化し固定したということ。(65)
〈参考 T進解答例〉
自由競争の下での、出自に囚われぬ平等を謳って格差を正当化する能力主義が社会に受容されると、それが浸透した社会の支配関係が自明視されるということ。(72)
問四「近代は人間に自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する論理が変わっただけだ」(傍線部エ)とはどういうことか、本文全体の趣旨を踏まえて説明せよ。(120内)
内容説明型要約問題。本問は、東大第一問の120字問題の例にもれず、本文の結論部に傍線が施されている。設問の要求する通り、これまでの論理展開を踏まえ、その論理の帰着する傍線部を分析すると自ずと書くべきことが見えてくる。逆に、この初手をいい加減にすると、酷い出来になるだろう。
そこでひとまず手持ちの言葉で傍線部をパラフレーズすると、「近代は/不平等な前近代を打倒し(A)/自由で平等な社会をもたらしたかに見えたが(B)/実は/不平等を隠蔽し正当化するために(C)/その論理(根拠)をXからYに変えた(D)」となる。後半を「正当化するために〜」という語順に変えたのは「XからYに変えた」という主題を焦点化するためだ。前段13段落からXとYは、それぞれ「外部(外因)」と「内部(内因)」だということはすぐに見えるだろう。さらに「外部」は「神や自然など」(⑨)と、「内部」は「(個人の)才能や人格」(⑥)、「資質や能力」(12)と対応する。前者はAの部分に繰り込むことができる。
このように締めの部分を明確にした上で、それに至る論理(A→B→C)を具体化していく。AとBは対比的な内容で、それぞれ⑨⑩段落を根拠に「(近代は)/不平等の根拠を外的所与(←神や自然)とした前近代の身分制を打倒し/自由な個人が共存する平等な民主主義社会を構想した」とまとめられる。しかし、引き続き⑩段落より、「その民主主義社会には平等を建前としながら、現実にはヒエラルキー、貧富の差が発生したので、それを隠蔽・正当化するために」(C)となるのである。
ここから再びDにつなぐのだが、筆者はCの格差発生を「近代に内在する瑕疵」(12)、つまり構造的欠陥とみなしていることを指摘したい。その欠陥を近代システムは、「機会均等」(④)(←「正当化」の論理として加えたい)の装いの下、個人の能力としての内因に転嫁している、として解答の締めにした。
〈GV解答例〉
近代は、不平等の原因を外的所与とした前近代の身分制を打倒し、自由な個人が共存する民主社会を構想したが、実は建前の平等に反し現実にある格差を正当化するために、機会均等の装いの下、その構造的欠陥を個人の能力としての内因に転嫁しているということ。(120)
〈参考 東大現代文P解答例〉
近代より前は格差の根拠が共同体外に投影され、不平等は当然であり社会秩序は安定していた。近代でも平等は建前であり実現不可能であって、秩序の安定のために格差を弁明すべく、自由意志に導かれる主体という虚構の人間像を生み出したにすぎないということ。(120)
〈参考 S台解答例〉
近代は、人間を自律した主体と想定し、神や自然を根拠とする身分秩序から解放して個人の努力次第で人生が決まる平等な社会をもたらしたかに見えたが、そのような人間観は虚構であり、現に存在する不平等を個人の責任に転嫁し正当化しているだけだということ。 (120)
〈参考 K塾解答例〉
かつては神や自然などを根拠として不平等が正当化されたが、近代では、遺伝や環境による個人の能力差が考慮されないまま、自由意志という虚構に基づく行為の結果として不平等が生じたとしても、個人の自己責任というかたちで正当化されてしまう、ということ。(120)
〈参考 Yゼミ解答例〉
身分制社会では身分差の根拠が神や自然など共同体の外部に求められ、それによる社会秩序の安定が説かれたのに対し、近代では自由と平等の実現を説きつつも、格差は個人の能力差がもたらすものであるという論理の下に不平等や格差が正当化されたということ。(119)
〈参考 T進解答例〉
近代以前は神や自然等共同体の外部を根拠に社会的不平等が当然視されたが、近代では教育の機会均等により公平な社会の実現を目指すも階層構造が再生産され、自由意志を持つと見なされた個人の能力差を社会的優劣の根拠として、格差が正当化されたということ。(120)
問五
a.培う b.誕生 c.欠陥
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