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筑波大学/倫理/予想問題⑧
【筑波大学/倫理/予想問題⑧】
以下の文章は、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984』(1948年出版)の一節である。これを読んで、あなたの考えを自由に述べなさい。(600〜800字以内)
「美しいことだね、言葉の破壊というのは。むろん最高の浪費は動詞と形容詞にあるのだが、同じように始末すべき名詞も何百とあるね。同意語ばかりじゃない。反対語だってそうさ。結局のところ、ただ単にある言語と正反対の意味を持つ言葉なんて、一体どんな存在価値があるというのかね?一つの言葉はそれ自体、正反対の意味も含んでいなくちゃならん。例えば、goodの場合を取り上げてみよう。goodみたいな言葉があるなら、badみたいな言葉の必要がどこにあろう。ungoodでじゅうぶん間に合う──いや、その方がましだ。まさしく正反対の意味を持つわけだからね。‥‥あるいはまた、もしgoodの強い意味を持った言葉が欲しければ、excellentとかsplendidといったような曖昧で役に立たない一連の単語を持っていても仕方がない。pulsgoodという一語で間に合う。もっと強い意味を持たせたければdoubleplusgoodと言えばよい。‥‥君には分からないかね、そうした美しさは、ウィンストン?」(新庄哲夫訳、一部表記を改めた)
〈GV解答例〉
まず、言葉は人間の思考を規定するという点を指摘したい。引用の例に基づくならば、Xという概念の反対語にYという概念が存在する場合、Yを「非X」という言葉に置き換えることが可能なのか。この場合、私たちの思考は、必ず概念Xを経由しなければならず、概念Yで直接思考することが不可能になる。また、概念Xよりも強い印象を与えるZという概念が存在する場合、Zを「強X」や「強強X」と置き換えることが可能なのか。この場合、私たちの思考は、質的な印象の違いが捨象され量的な多寡でしか物事を捉えられなくなる。こうした言葉の効率化・画一化に伴う思考の貧困状態は、ハイデガーの言う「ダス・マン」に相当するのではないか。ハイデガーはそこから脱して実存を回復する処方を自らが「死への存在」であると自覚することだと説いたが、同じく多様な言葉の喪失も私たちを個別に在ることから遠ざけると言えよう。次に、言葉の書き換えによる思考の支配は近代型の権力構造を示唆するという点を指摘したい。フーコーは、支配・被支配の関係を暴力装置を介してあからさまに示す前近代の権力に対して、近代の権力を不可視化・遍在化・規律化として特徴づけた。フーコーによれば、医療や学校などの制度を通して人々の心を近代の目的に適う形に作り変え、標準から外れるものを排除する生政治が巧妙に展開されるのである。まさに言葉の書き換えにより思考を支配しようとするあり方も生政治の典型だと言えよう。というのは、言葉の書き換えは効率化のような「美しい」理由によって進められるので抵抗がしにくい。しかし気づいた時には、私たちの内面における思考があるフレームの下に置かれ、その外を見えなくするのである。近年強まるテクノリバタリアンの主張も「コスパ」の面からダイバーシティを縮小しようとする傾向をもつが、私たちはそれに抗してマイノリティと多様性が生みだす豊かさを擁護しなければならない。(800)
〈ChatGPTくんの答え〉
この一節は、『1984』に登場する架空の言語「ニュースピーク」に関する説明であり、オーウェルが言語統制の危険性を示した重要な部分である。思想史的な観点から見ると、この言語政策は単なる語彙の整理ではなく、人間の思考そのものを制限し、社会の統制を強化する手段として機能する。
オーウェルの言語観には、サピア=ウォーフ仮説の影響が見られる。この仮説では、人間の思考は使用する言語によって形作られ、言語の構造が世界の認識に影響を与えるとされる。ニュースピークはまさにこの発想を逆手に取り、言葉を削減することで「不要な」概念を根本から排除しようとしている。たとえば、「bad(悪い)」を「ungood(非良い)」と表現することで、「悪」という独立した概念が消滅し、善(good)を基準とした言語体系が強制される。これは単なる語彙の整理ではなく、善悪を権力側の基準に依存させる危険な操作である。
この発想は、プラトンの「イデア論」との対比でも理解できる。プラトンにとって、言語は理性によって正しく用いられるべき道具であり、哲学者はイデアの真理に至るために言葉を研ぎ澄ませるべきだと考えた。しかし、ニュースピークはその逆で、言葉の可能性を制限し、思考の幅を狭めることで、支配者にとって都合のよい「真理」を強制しようとする。これは、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で指摘した「思考停止の強制」にも通じる。アーレントは、ナチズムやスターリニズムのような全体主義体制では、国民が自律的に考える機会を奪われ、権力に従属するよう誘導されると論じた。ニュースピークもまた、言語を変えることで「考えない」人間を作り出そうとしている。
さらに、フランシス・ベーコンの「知は力なり」という言葉も想起される。ベーコンは、知識が人間の力を拡張する手段であると説いたが、ニュースピークはその逆を行い、「知識の削減」によって力を奪い去る。オーウェルの描く世界では、言葉の削減が支配の手段となり、人々は自己表現だけでなく、批判的思考すら困難になっている。
この一節は、現代社会にも通じる警鐘として読むことができる。たとえば、SNS上での言語の簡略化や、政治的スローガンの単純化が進むと、人々の思考が短絡化し、多様な意見を持つことが困難になる。また、「ポリティカル・コレクトネス」の名のもとに特定の言葉がタブー視される状況も、ニュースピーク的な言語統制の危険性を孕んでいる。もちろん、言葉の変化は不可避だが、それが意図的に操作されると、個人の思考や社会の自由が脅かされることになる。
結局のところ、オーウェルが描いたディストピアの本質は、「言葉を奪われることは、思考を奪われること」にある。思想の自由を守るためには、単に語彙を増やすだけでなく、異なる視点を持ち続けることが重要だ。言語が思考を形作る以上、言葉を豊かに使うことこそが、自由な社会を維持する鍵となる。