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痴漢と母親を憎んだ日の話
あまり人に話してない事だけど、私は小学校2年生の時、学校の帰りに痴漢にあった。
その日から私は男性への警戒心が強くなり、母親の取った行動で大人と言うものに失望して、その答え合わせをしながら成長したように思う。
私と生前の母を知っている人は、私がとにかく母親を愛して大切にしていた印象の人も多いだろう。
その通り、私は母親の最低な部分を早くに知り、その上で愛してきた。
なので人に対しては「そんなもんよね」と諦めのような感情をずっと持ったまま、それを包み隠しながら生きると言う何とも拗らせた大人になってしまった。
中年になった今でもその時の記憶は鮮明に残っていて、「あの日にあの近道を通らなければ」と今でも考えたりする。
最近の性被害のニュースを見ているとそれを簡単に捉える人も割といて、とても嫌悪感を覚える。
私はまだ被害が浅かったから、大人になって恋愛やセックスをする事が出来てるのだと思う。
それどころか他人様に愛や性を語る仕事もしている。
いや、だからこそそれをしている、とも言える。
運が悪ければ、連れ去られて7歳でレイプされていたり、果ては殺されていたかもしれない。
あの日私は、いつも一緒に帰っていた友人がまだ学校に残ってると思い込み、少し教室で待っていた。
別の子が「◯◯ちゃん、もう帰ったよ」と教えてくれたので少し寂しい気持ちを感じながら、1人で帰っていた。
いつもより学校を出るのが遅くなったので、いつもの大通りの道ではなく、少し近道の線路沿いの道を帰ることにした。
そこでとある男に声をかけられた。
サングラスをかけていて、パーマをあてたような風貌で20代か30代の男だった。
「1人で帰ってると?」
私は怖くて「いいえ」と言って早歩きになった。
「オシッコしたいんやない?」
と男が言う。
私は子供ながらにそれが何となく性的な狙いがあると気づいた。
気づくと服が引っ張られていた。
男はしゃがみ込んで私のスカートをめくっていた。
恐怖で私は泣き出した。
男はそのまま私のパンツを脱がそうとした。
私が「イヤー!」と言うと、男は「わかったわかった」と言って、私の手を掴んだ。
怖さのあまり私はとにかく大声で
「イヤーーーーー!!」と泣き叫んだ。
それまであんなに大きな声を出した事はなかった。経験したことのない恐怖を感じたのだと思う。
その声で誰か人が来るかもと思った男は、私を置いて走って逃げた。
私はそのまま家への道を泣きながら全力で走った。
いつもお菓子を買う商店の前まで来たら、力が抜けて座り込んで泣いていた。
顔見知りの商店のおじさんが保護してくれて、家へ連絡をしてくれ、迎えに来た母親と一緒に家に帰った。
と、ここで一旦話を区切りたい。
ああ、良かったね、あの日の私。
怖かったけどレイプされずに、殺されずに、今も生きていて良かったね。
犯人は多分捕まっていないけど…
そんな経験もあり、その後中高生時代は父親から暴力を受け続ける日を過ごすことになる私は、人よりも男性に不信感を持っていると思う。
最近の性被害のニュースでのぬるい判決や、性被害を受けた人へのバッシングなど、見ていて本当にしんどくなる時がある。
私は辛い思いをした女性たちに寄り添える人間でありたいなと改めて思っている。
さて、私の性被害の話は一旦ここで終わり。
この日はさらに私にとってとんでもないトラウマを植え付ける事件が起きたのだ。
ここからは、その話。
痴漢にあった私への母親の行動が、別のトラウマを植え付けた。
この日から私は大人が大嫌いになったし、母親のことを「言うてもこいつは最低なとこがあるから信用できん」と思うようになった。
ちなみに、母はもう数年前に亡くなってるので今となってはこの先のことは笑い話にしているし、今も玄関に母の写真が飾ってあるので、嫌ってはいない事は理解して欲しい。
悪い人ではない。
彼女は愛情深いところも沢山あった。
だけれど、この日から母親を心の底から信用することはなくなったのは事実だ。
保護され帰宅した私は、痴漢にあった状況を母親に泣きながら話した。
「怖かったー!えーんえーん!」と号泣していた。
母も「怖かったね!許せないね!ヨシヨシ、大丈夫よ」
と抱きしめてくれた。
ひとしきり泣き終わり、落ち着いたあたりで母親は私にジュースを渡してくれた。
私は泣きながらもそれを少しずつ飲んだ。
すると母親は突然電話をかけ出した。
ジーコジーコ(当時のダイヤル式電話ね)
「あ、もしもし?私!お姉ちゃん?今ね、さゆりが痴漢にあったのよ!そう!帰り道で男にパンツ脱がされそうになったんだって!やぁねえ、本当怖かよ!」
私は呆然とした。
母親に泣いて訴えた恐怖体験を、すぐに「聞いて聞いて!」とばかりに叔母さんに電話をして喋っているのだ。
私は痴漢にあったことそのものが恥ずかしくてたまらず、なぜ母がそんな事をするのか理解できなかった。
母は叔母さんとの電話を切ると、またジーコジーコとダイヤルを回す。
「あ、もしもし?◯◯ちゃん?ねえ、今さゆりが痴漢にあったのよ!やぁねぇ、学校帰りにさ…」
とまた同じ話をしている。
頭が真っ白になった。初めはなぜ母がそんな事をするのか全く理解できなかった。
だけど、母はその電話の後もまたジーコジーコ、とダイヤルを回して同じ事をまた別の人に話した。
途中から私は気づいてしまった。
この人は私が痴漢にあった事を衝撃の噂話として人に話すのが楽しいのだと。
一通り話した後、
「学校にも連絡せんばね」と言うので私は「いや!恥ずかしかけん、せんで!」と泣いた。
これ以上人に知られてたまるかと思った。
ここまで読んだ方は、「なんてひどい母親だ!」と思うかもしれない。
私も当時そう思った。
でもね、昭和の田舎の人間なんてそんなもんな気がする。
今のようにハラスメントを考える時代でもなく、田舎には刺激も情報もない。
子供に酒やタバコのお使いをさせていたような時代だ。
殴られたり殺されかけたなら別だが、「パンツ脱がされそうになった」と言うのは退屈な田舎のおばさんの話のネタになったのだろう。
「えー?!大変だったね!」と身近なスクープ話の中心になれて母は気分が良かったのかもしれない。
大人になってから、母親にこの事を話した。
「あれって何のつもりだったの?めちゃくちゃ嫌で傷ついた」
と言うと
「そんな事してないよ、おばあちゃんにはすぐ電話したけどそれだけだったじゃない」
と記憶変換してやがった。
私はその日から大好きな母親の事を「どこか底の浅い人」と言う見方をするようになった。
だからこそ母親に執着することもなく成長できて、それが今の私を形成している。
私は今の私が大好きだ。
中々に誇りを持って生きていると思う。
この話で「お母さんを許せたの?嫌いにならなかった?」
と思う人もいるだろう。
ちなみに母親に対して憎しみや失望を抱いた事は、この先にも何度かあるのだ。
ただ、私は心が成長し過ぎてある時から母を超えてしまってたのだと思う。
親が子供の不出来を仕切り直しで許すのと同じように、母を許したし欠点もひっくるめて愛した。
私が彼女の母親になったのだ。
今やこの世にいない人だが、玄関の家族写真の群れの中に彼女の写真も入れている。
さて、そんな拗らせを備えた私だが、今の歳でさらに愛が溢れて止まらない。
自由に愛を表現できるとは、何と素晴らしい事だろう。
そんなわけで、これからもよろしく頼む。