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ポヴェリア島:死と恐怖の歴史を紐解く

ヴェネツィアのラグーンに浮かぶ小さな島、ポヴェリア。その名を聞いただけで、多くの人々は不気味な雰囲気を感じるだろう。この島は、数世紀にわたる悲劇と恐怖の舞台となってきた。今回は、この「死の島」と呼ばれるポヴェリア島の歴史を紐解き、その暗い過去と現在の姿を探っていく。


ポヴェリア島の時系列

まずは、ポヴェリア島の主要な出来事を時系列で見ていこう。

  • 421年: ローマ帝国の難民が避難

  • 9世紀: ヴェネツィア共和国の一部として発展

  • 1379年: ジェノヴァ共和国艦隊の攻撃を防ぐため要塞化、住民はジュデッカに移住

  • 1527年: 修道院への提供を断られ、無人島のまま

  • 1645年: ヴェネツィアの出入りを監視する拠点に

  • 1776年: ヴェネツィア共和国の公衆衛生局の管轄下に

  • 1793年: ペスト患者の隔離施設として機能開始

  • 1805年: ナポレオン統治下で軍の病院としても使用

  • 1922年: 精神病院として転用

  • 1968年: 精神病院閉鎖、島は放棄される


ポヴェーリア島のイメージ1

黒死病の時代 - 死の影が忍び寄る

ポヴェリア島の歴史で最も暗い章の一つは、黒死病の時代だ。1347年から1351年にかけて、ヨーロッパ全土を襲った黒死病。その恐ろしさは、想像を絶するものだった。

黒死病は中央アジアで発生し、シルクロードを通じてヨーロッパに広がったとされる。1347年、クリミア半島の港町カッファからジェノヴァ商人によってシチリア島に持ち込まれ、瞬く間にイタリア本土やフランス、イギリスへと拡大していった。

感染経路は主に、ペスト菌(エルシニア・ペスティス)を持つノミがネズミから人間に感染させるというものだった。感染者は数日以内に高熱やリンパ節の腫れに襲われ、多くの場合、数日のうちに死亡した。

この疫病の猛威は凄まじく、ユーラシアと北アフリカ全体で7500万から2億人もの命が失われたとされている。ヨーロッパに限っても、当時の総人口約1億人のうち、2500万人程度が犠牲になったという推計もある。社会構造にも大きな影響を与え、封建制度や農奴制が揺らぎ、農民反乱が起こるなど、中世ヨーロッパの転換点となった。

ポヴェーリア島のイメージ2

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ポヴェリア島 - 隔離と恐怖の始まり

1793年、ポヴェリア島は正式にペスト患者の隔離施設として機能し始めた。この年、2隻の船でペスト患者が発見されたことがきっかけだった。以降、多くの患者がこの島に送られ、推定で16万人以上がここで命を落としたとされている。

島に送られた患者たちの運命は、悲惨そのものだった。多くの場合、治療も受けられずに放置され、「生きては帰れない死の島」として恐れられるようになった。当時の医療スタッフは、有効な薬剤やワクチン、感染症に関する高度な知識が不足していた。治療は主に水分補給、栄養補給、そして基本的な治療法を用いて症状を管理する試みで構成されていた。

一部の医師は、酢風呂を処方したり、癒しの力を持つと信じられている花や葉、または植物を粉砕した薬草を湿布したりした。また、患者を出血させたり、ヒルを適用したりして体液のバランスを取ろうとする医師もいたが、これらの行為はペスト菌と戦う上で実際のメリットはなかった。


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「骨の畑」の恐怖

ポヴェリア島で最も恐ろしい光景の一つが、「骨の畑」と呼ばれるものだ。ペストによる死者が急増するにつれ、遺体の処理が追いつかなくなった。当初は個別に埋葬されていた遺体も、やがて大規模な焼却が行われるようになった。

海岸線に沿って築かれた巨大な焼却炉で、次々と遺体が焼かれていった。腐敗した遺体が山積みになり、周囲には吐き気を催すような臭いが漂っていたという。生存者たちの精神的苦痛に追加されるこの嘔吐の臭いが空気を満たした。

最終的には、遺体の数が増えるにつれて、より組織化されていない大量の焼却が行われ、証言者によって「骨の畑」と形容されるグロテスクな光景が生まれた。焼かれた骨が散乱し、灰と混ざり合って島の土壌の一部となっていった。この光景は、ペストの致命的な結果に直面する社会が直面した絶望的な状況を強調している。まさに地獄絵図そのものだった。

ペスト患者の治療のイメージ

精神病院の時代 - 新たな恐怖の幕開け

20世紀に入り、ポヴェリア島は新たな役割を担うことになる。1922年、科学の進歩と医学、心理学、精神医療における突破的な発見を背景に、島は近代的な精神保健施設として転用された。しかし、この精神病院もまた、悲惨な歴史を刻むことになる。

当初、この転換は希望に満ちたものだった。しかし、島の暗い過去は簡単には消え去らなかった。噂によれば、この病院では医師による非人道的な治療や人体実験が行われていたという。特に、ロボトミー手術など、今日では非倫理的とされる手法が患者に施されていたとされる。当時の精神医療の実態を反映し、電気ショック療法や強制的な薬物投与なども日常的に行われていたと言われている。

患者たちは、しばしば幽霊を見たり、泣き声を聞いたり、他の超常現象を目撃したと訴えていた。しかし、これらの訴えは全て精神病患者の幻覚によるものだと片付けられたという。真偽は不明だが、島の過去の悲劇が患者たちの精神状態に影響を与えていた可能性は否定できない。

さらに、病院の院長が幽霊に悩まされ、自殺したという衝撃的な伝説も存在する。この伝説によれば、院長は塔から飛び降りて命を絶ったとされる。これらの噂や伝説が、ポヴェリア島を心霊現象や超常現象と結びつける強力な要因となった。

1968年に精神病院が閉鎖されるまで、この島は患者たちの苦しみと恐怖の舞台であり続けた。閉鎖後も、島に残された建物や設備は、かつての悲惨な出来事の無言の証人として今も存在している。ポヴェリア島の精神病院の歴史は、20世紀前半の精神医療の暗部を象徴するものとなり、今日でも多くの人々を魅了し、同時に恐怖させる存在となっている。

精神病院での治療のイメージ

幽霊島の誕生

1968年、精神病院が閉鎖されて以降、ポヴェリア島は完全に放棄された。しかし、その悲惨な歴史は島に深く刻み込まれ、「世界一幽霊が出る島」として知られるようになった。

訪問者たちは、島で不気味な体験をしたと報告している。悲鳴やうめき声が聞こえたり、不気味な存在を感じたりするという。また、「島の土の50%は死者の灰でできている」という都市伝説まで生まれた。


現在のポヴェリア島

2024年現在、ポヴェリア島は依然として立ち入り禁止となっている。歴史的建物や自然環境は放置されたまま、時の流れに身を委ねている。

イタリア政府は島を99年間貸与する計画を発表したが、その悲惨な歴史のためか、借り手は見つかっていない。

放置された教会のイメージ

ヴェネツィアの新しい入場料制度

2024年4月から、ヴェネツィア市は日帰り観光客から入場料を徴収する試験的な制度を導入する。特定の日に旧市街地への入場が有料となり、料金は1日あたり5ユーロだ。ポヴェリア島自体はこの制度の対象外だが、観光客が訪れる際には注意が必要だ。

廃墟となった病院のイメージ1

黒死病の正体をめぐる新説

長年、黒死病は腺ペストによるものと考えられてきた。しかし、近年の研究では、その症状や流行の特性から、ウイルス性出血熱(例えばエボラウイルスやマールブルグウイルス)である可能性が示唆されている。

リバプール大学のクリストファー・ダンカン教授と社会歴史学者スーザン・スコットは、「黒死病はペスト菌によるものではなく、出血熱ウイルスによるものであった」と主張している。

この新説は、黒死病の急速な感染拡大や高い致死率をより適切に説明できる可能性がある。腺ペストは主にノミを媒介とするが、ウイルス性出血熱は人から人への感染がより容易で、致死率も高いからだ。

廃墟となった病院のイメージ2

終わりに

ポヴェリア島の歴史は、人類が直面してきた恐怖と苦難の縮図とも言える。ペストや精神疾患との闘い、そして人間の残虐性が、この小さな島に凝縮されている。

現在も立ち入り禁止となっているポヴェリア島。その静寂の中に、かつての悲鳴や苦しみが今も残っているのかもしれない。この島の歴史は、私たちに多くのことを考えさせる。医療の進歩、人権意識の向上、そして過去の教訓を未来に活かすことの重要性を。

ポヴェリア島は、単なる幽霊島ではない。それは人類の闇の歴史を映し出す鏡であり、同時に、私たちがどれほど進歩してきたかを示す証でもある。この島の物語を通じて、私たちは過去を振り返り、より良い未来を築くためのヒントを得ることができるのだ。



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