「言語化」修行の道はいつまでも
「視覚化」という言葉がある。
英語だと、Visualization。
本で読んだり、音を聴いたり、
心で感じたりした「何か」を、
頭の中でイメージ化すること。
そのまま「ビジュアル化」と
言っても通りそうだ。
数か月前に、田口ランディさんから
「クリエイティブ・ライティング」
という手法のさわりの部分を教えて
いただいた際に、
「過去の記憶を視覚化する」
ことが肝だと伺った。
ありありと、脳内にその当時の情景が
浮かぶように、イメージを描くように
と教わった。
その心象風景がイキイキと、細かい
ところまで思い描けさえすれば、
その様子を言葉に直していくだけで、
その人の個性あふれる文章が一丁
上がり、そんなニュアンスだったと
記憶している。
「視覚化」が肝、そのように簡略化して
記憶していたが、当然のことながら、
「視覚化」の後には必ず「言語化」の
プロセスがどうしたって必要である。
視覚を通じて感じ取っている「何か」の
様子を、言語に置き換えていく。
そうしないと文章にはならない。
文章にならないと、他人にその「何か」
を伝えることはできない。
絵を描く(視覚)
音楽を奏でる(聴覚)
料理を作る(味覚)
香水を調合する(嗅覚)
パフォーマンスを演じる(触覚)
このように、五感それぞれに対応する
形で「何か」を伝える、表現すること
が可能だと思うのだが、
「言葉にする」ということ、
つまり「言語化」は、それら全てに
横串を刺す、あるいは共通する表現
形態だと言える。
最近、この「言語化」という言葉が
よく聞かれるような気がしている。
気のせいかもしれないし、実際
「言語化」ブームなのかもしれない。
ブームかどうかは脇に置き、
「言語化」は実に有用、有益な
行動であり、人生に実りをもたらす
習慣となることは是非強調しておく
べきだろう。
人は年がら年中色々なことを考えて
いる。
結構いい思い付きもしているはずだ。
しかし、意識しないで、考えるが
ままに任せていたら、それらは全て
あっという間にどこかに押し流され、
二度と戻ってこない可能性が高い。
「言語化する!」でもいいし、
「日記を書く!」でもいい。
とにかく言語化を怠らないという
習慣を身に付けさえすれば、
身の回りにあふれる情報から、より
有益なものを選び取る能力が増す。
心のアンテナがピッと立つ。
そうすると、世の中との関わりがより
一層面白いものとなってくる。
頭が冴え、気持ちがワクワクする。
1月1日から数えて今日は300日目。
noteの連続更新を途切れることなく
やってきて、また一つの大きな節目
と言える。
だからどうということはないが、
やはり「言語化」の能力が多少は
磨かれてきたような気がしている。
自己評価だけでなく、他者評価でも
そのように言えるようになるべく、
粛々と、淡々と、心を込めて、
日々「言語化」修行の道を歩いて
いこう。
参考書籍を挙げるとすれば、この辺り
だろうか。