「言語化」とオートクライン効果
夜9時に就寝なんて、何年ぶりだろう。
大抵は12時就寝の6時起き。
6時間は睡眠をとろうと心掛けつつ、
結局5時間程ということも多いこの頃。
それで知らず知らずのうちに疲れを
溜めていたのかもしれない。
体が少々だるく、微熱もあったので、
昨日は大事を取って早く寝たのだが、
体が睡眠を欲していたようで、
たっぷり10時間以上寝ることが
できた。
若い頃は、10時間でも12時間でも
寝たいだけ寝られた記憶があるが、
最近は自然と目が覚めてしまうので、
本当に久々である。
熱も下がり、だるさもほぼなくなって
来たのでもう大丈夫だろう。
このご時世なので、コロナじゃないか
と家人がやたら大騒ぎしたが、
それも自分を心配してのこと。
そう思って、大人しく言いつけに従い
先送りにできることは全部先送りに
して休息を優先した。
単に言い返す元気がなかっただけと
言えなくもないが、いずれにせよ
味覚に異常はないし、コロナでは
なかったはずだ。
逆に、これがコロナだったなら、
免疫獲得で喜ばなくてはならない
のかもしれない。
最近、「言語化」という言葉を
あちらこちらで聞く。
元々、日本語の語彙としてはあった
と思うが、そんなに頻繁に会話の中に
出て来るような言葉ではなかったよう
な気がする。
頭の中にあるイメージ、
体の中に蓄積された感覚、
それらはあくまでも「主観」だ。
これを、他の人にも分かってもらえる
ようにするには、「言語化」という
プロセスが欠かせない。
「主観」という言葉を意識して
「客観化」と言ってもいいし、
「目に見える化」なんて言葉もある。
この「言語化」という言葉が、多くの
人に使われるようになったことには
何らかの訳があるだろう。
パッと思いつく仮説としては、
人々のコミュニケーションが個別化、
複雑化して、お互いの意志疎通が
できているようで微妙にズレている、
そんなケースが多発するに至り、
あえて明確に言葉を定義していく
必要が生じる場面が増えたというもの。
世代が違うだけで、使う言葉が結構
違うというのは実感が湧くと思う。
この世代というのが、昔に比べてより
細分化しているように思われること
からも、違いを言語化しておく必要性
が増していると推察されるのだ。
他の仮説としては、単純に、情報を
発信する人口が増加したということ。
つまりは、「言語化」に迫られた人の
数が増えたということである。
SNSの飛躍的な浸透で、誰もが何かしら
発信している時代、ただ、誰でも簡単に
言葉を紡げるわけではなく、いざ発信と
なるとどこか臆病になる人は多い。
事前にちゃんと言うべきことを「言語化」
しようという誘因が働く、そんな人が
増えているのかもしれない。
仮説と言いながら、あまり検証する気も
なく、ここにダラダラと書き留めて
終わりにしようと思っているのだが、
いずれにせよ「言語化」という営みは
人生にとって非常に有益だということ
だけは断言できる。
自分の頭の中にある知識の断片たちが
つながりあって、ネットワーク化して、
新しい可能性を切り拓いていく。
そして、この「言語化」の能力は、
日記という習慣によって維持・強化
されていくことも間違いない。
日記を書くとなると、当然自分の
頭の中で考え事を色々反芻すること
になる。
そしてアウトプットしていくのだが、
このときに、コーチングで言うところ
の「オートクライン効果」が発揮
されると思うのだ。
「オートクライン (autocrine) 」には、
「自己分泌」という訳が充てられる。
私も最近コーチングの勉強を通じて
知ったばかりの単語で、コーチされる
側が、コーチによって促されて話した
言葉を自分で聞くことによって、改めて
自分が考えていたことに気が付く、
そんな意味合いである。
ひと昔流行った「アハ!体験」に近い
と私自身は理解している。
「分かったから書く」のも大切だが、
「書いたらより一層分かった」という
おまけまで付いてくる、そう考えても
よいだろう。
私にとってはこのnoteが日記がわりに
なって久しい。
noteでなくても勿論よい。
手書きにこだわる人もあるだろうし、
Facebookに書いている人も多いし、
ブログをお持ちの人もいるだろう。
続けている人は、是非とも続けた方が
いい。
書いていない人には、今、すぐ、今日
から書き始めることを勧めたい。