事実と意見の峻別
今日は「幸せ」をテーマに書く予定
だったのだが、とてもそんな気に
なれないことが生じてしまい、
取り急ぎ別のテーマで殴り書き。
法律の勉強をしていたときに、強く
意識するよう心掛けさせられたこと、
それが、事実と意見を峻別せよ、
ということ。
事実は、動かしようのないこと。
意見は、あくまでもある人の
「ものの見方」なので、常に
揺れ動く可能性がある。
最近のコロナウィルスの情勢を
TVでチラッと見るにつけ、この
「事実と意見の峻別」という
態度がマスコミには本当に欠けて
いると思わざるを得ない。
事実だけを追えば、事態はほぼ
収束に近いように思える。
死者の数は、毎日0人を更新し、
ごくたまに1人。
もちろん尊い命であるから、
その命を奪ったコロナウィルスは
憎いし、決してそれを肯定する
ものではない。
だが今や、コロナよりも一般の
肺炎だったり、それこそ交通事故
だったりといった原因による
死亡者の方が圧倒的に多いのは、
既に誰の目にも明らかだ。
確かに、非常事態宣言の出た3月
4月あたりの頃は、コロナウィルス
の伝播の早さ、死に至るまでの
挙動など、分からないことだらけ
の中で、分からないのであれば
最大限の注意を払うというリスク
回避行動に出るのは合理的だった。
しかし、ここ2ヶ月以上、PCR検査の
数が激増しているから感染者数も
増えてしまっているだけで、
死者や重症患者の数は増えるどころ
か激減しているのである。
なのに、なぜこんなにも不安を
煽るような論調をマスコミは
繰り返すのであろうか?
日本という国全体が、大して
具合が悪くもないのに、無理矢理
風邪をひいたと思いこまされて、
マスクをさせられているような
ものだ。
ごく一部の、事実を丹念に追って
論理を組み立てる、まともな見識
を持ったジャーナリストもいない
わけではない。
そういうまともな人の声が、
もっとメディアで取り上げられて、
世の中に露出して欲しい。
今は、事実に対して、一方的な
意見をかぶせたものが世の中に
流れ、反対側からの意見がほぼ
無視されているように思える。
誰かが、何らかの意図をもって
コントロールしているのでは?
そんな陰謀論めいたことを言う
のもはばかられるし、信じても
いないが、言いたくなる気持ち
もまた分かるのである。
今こそ、事実と意見を峻別する
力が求められる。
誰かが意図して事実に紛れこませ
ているかもしれない意見を見抜き、
事実に立脚して情勢を分析する
意識を、常に持たねばならない。
そのように思う。