2011.3.11の記録と記憶
2011年の3月11日、私は夫と当時一歳の長男と一緒に北関東某所の大きな園芸店にいた。よちよち歩きの長男を連れて、ビニールハウスのような造りの店内を歩いている時に大きな揺れがおこった。夫は少し離れた所にいたので、私と息子が2人でいるのを見て近くにいたおばさんが「赤ちゃんがいるじゃない!」と駆け寄ってきてくれた。何かあった時は手伝ってあげるから!という雰囲気だった。揺れは収まらず、どんどん大きくなっていった。広い店内だったので、狭い建物の中で感じるほどの恐怖はなかった。棚から商品が落ち始めた時、先程のおばさんが「きゃあ」と悲鳴を上げて私にしがみついてきた。私たち親子を助けようと駆け寄ってきてくれたおばさんが、突然取り乱して見ず知らずの私にすがりついてきたことが、逆に私を冷静にさせてくれた。息子をしっかりと抱っこして、揺れがおさまるのを待ってから夫と合流し、すぐに家に帰ることにした。車の中でラジオを聴きながら、東北地方で大きな地震があったことを知った。私たちは2010年まで三陸地方に住んでいて、岩手県、宮城県の沿岸が実は地震がとても多い地域で、遠くない将来大地震が来ると言われていたことも知っていたので、ついに来たか、と思った。
家に帰ると(この時、夫の家族と同居していた)義父母が地震で落ちてきた家電や水槽の片付けを終えたところだった。自宅に隣接しているお店の方が悲惨な状態だからそちらを片付けないといけないと話していた。私たちの住んでいた市は、震度7だったらしい。テレビのニュースをつけると、東北地方からの中継で津波の映像が流れ始めた。リアルタイムだった。放映している側も視聴している私たちも、何が起きているのか一瞬判断できていない感じだった。テレビの中で、街が津波にのまれて行った。あの家の中には、あの車の中には、人がいるんじゃないか。理性がそう言っているけど、判断力は追いついていなかった。のどかな田んぼが広がる田園地域を、黒い波は淡々と進んでいた。
私たちが三陸沿岸に住むことになり初めてアパートを借りにその地域に行った時に、大家さんに「ここは山の上だから絶対に津波は来ないよ」と言われて驚いたことをよく覚えている。海のない場所で育った主人と、地震の少ない地域で育った私はどちらも「津波」という災害が自分たちの生活圏でおこり得るということを考えたことがなかった。聞けば三陸沿岸は数十年おきに大きな津波に襲われているらしく、アパートの大家さんは防災意識がとても高い方だったようだ。
テレビで津波の映像を見て、大家さんのことを思い出した。その時、義母が「今朝、夢を見た」と話し出した。義母の夢の中ではまだ私たち夫婦は三陸に住んでいて、大地震があって家の中が水浸しになっている、という内容だったらしい。義母は昔から時々そういうお告げのような夢を見る人だ。余談だが、私の知人も大地震が起きる夢を見て、慌てて防災リュックを買ったら数日後に東日本大震災が起きた、という話を聞いた。
テレビでは相変わらず津波の映像が流れ続けている。私はだんだん気分が悪くなってきて、「怖くなってきたのでテレビを消してもいい?」と義母に言った。義母はハッとしたようにもちろんそうだね、と言ってテレビを消して、お店の片付けをするために出ていった。
それから数日間のことは、詳細には覚えていない。私がまだ三陸に住んでいると思っていた友人たちから安否確認が複数届いた。私は逆に三陸地方にいる知人や友人に安否確認メールを送った。直接の知り合いで犠牲になった方はいなかった。けど、同世代の友人は、職場の方の奥さんとお子さんが亡くなって、お父さんだけが残されたと話していた。その友人には引っ越すときに石油ストーブをあげてきたので、「電気が使えないのでもらったストーブを重宝してるよ」とメールがきた。よく長男と遊びに行っていた保育施設の先生からは、施設に通ってきていたお子さんが亡くなったと聞いた。いつも買い物していたスーパーも、最寄りの駅も、ぜんぶ流されたらしい。大家さんは私たちが住んでいた山の上のアパートの敷地内で避難生活をしていると言っていた。
福島では原発が大変なことになっているらしい。夫が理系の研究者タイプの人なので、原発で起きていることや放射能のことなど、客観的に落ち着いてみてくれたのがありがたかった。ネットでは放射能関連で真偽不明の情報があふれていて、私一人では判断しきれなかった。スマホが今ほど普及していなかったけど、ガラケーでも震災や放射能に関するよくわからない情報のチェーンメールが送られてきた。ガソリンが足りなくて、義父が近所の情報を集めて朝からガソリンスタンドに並んでガソリンを買ってきてくれていた。義母も近所のネットワークを駆使して、品薄な中でも生活必需品をしっかり確保してくれた。義父母と一緒に住んでいたから、様々な面で協力しあえてとても心強かった。
ニ、三年後に自宅を購入することになった時は「津波、河川増水、地盤沈下がない場所」を探した。長男の幼稚園を選ぶときも「何かあった時に徒歩で迎えに行ける場所」を選んだ。東日本大震災の体験は生々しくて、災害に対する警戒感は強まった。でもそれは次第に薄れてきたように思う。
あの時、お腹にいた次男が今年の春に小学6年生になる。三陸に住んでいた時に産まれて、北関東で一緒に地震に遭遇した長男は、思春期真っ盛りで会話もあまりない。義父母は健在だが、あの当時のようなフットワークの軽さは年々なくなってきている。三陸地方の友人や知人とも疎遠になってしまい、今では連絡は取り合っていない。
私の記憶がもっと薄れてしまう前に、あの日のことを一度しっかり記しておきたくて、今日記事を書いた。