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「大豆田とわ子と三人の元夫」別れと日常の物語


※この記事はドラマ最終回までのネタバレを含みます。


はじめに

一話を見終えた時、独特な話だと思った。
良くも悪くも、日常を描いているだけのように感じたからだ。この物語では殺人事件は起きないし、主人公が世界を救うなんてことはない。法廷で戦うわけでもなければ医療現場で闘うわけでもないし、感動の再会もなければ復讐もしない。
ひたすらに変わった女性の日常を描いた物語だった。どこかコミカルで、それでいてテーマは少し重たい。不思議な、どこかふわふわとした感覚がそこにはあった。
ところがどうだろう。
二話から五話までで三人の元夫それぞれをテーマに物語は進み、一話でのそれぞれの元夫の印象が覆されていくことになる。それぞれのキャラクターが憎めなくて愛おしくなる。
やはり坂元裕二さんの脚本は素敵だ。私はいつの間にかこの作品の虜になっていた。

新たな恋愛観

まず話しておきたいのは、この作品における新しい恋愛観の描写である。
坂本さんの物語には「恋は素敵だ」というものが多いように感じる。しかし、この物語で、また違った恋愛観を描いてくれた。

「恋愛が邪魔。女と男の関係が面倒くさいの。あたしの人生にはいらないの。そういう考えがね、寂しいことは知ってるよ。実際、たまに寂しい。でもやっぱり、ただただそれがあたしなんだよ」

とわ子の親友・かごめの言葉だ。
「恋愛が邪魔」
おそらくアセクシャルである私にとって、これほどまでにしっくりくる言葉はない。
「素敵」な恋愛を大切だと思えないことを肯定してくれるこの台詞が、私はとても好きだ。

地獄の餃子パーティー

この物語の大きなターニングポイントといえば、ほぼ間違いなく六話だろう。
餃子パーティという場に、三人の元夫たちと、それぞれに対応するような形で三人の女性が集まった。
女性陣は相手の欠点を言い合い、お互いに共感し合う。対照的に、元夫たちはその胸に言葉がグサグサと刺さる。ただし、それだけではない。元夫たちはそれぞれがそれぞれの女性に向き合うことを決意し、女性たちは互いに、相手の好きなところも言い合うのだ。三組のさらなる恋の発展が見られるのかと思うが、残念ながらそうはいかない。
それぞれが家路についたとき、最初の元夫の相手であった早良という一人の女性が言う。

「もう遅いよ。どこが好きだったか教えるときは、もうその恋を片付けるって決めたときだよ。せっかく自分だけが見つけた秘密だったんだから」

そして舞台は変わり、とわ子から一人、大切な人が失われる。
この時、私たち視聴者はハッキリと感じ取る。
この物語のテーマは「別れ」なのである、と。

この作品における別れ

この作品で、別れはハッキリきっぱりとは描かれない。元夫たちは今もとわ子に会いに来るし、未だに未練を捨てきれない。それでいて三人の元夫たちは、本心ではないながらそれぞれの新たな出会いと別れてしまう。亡くなった親友・かごめの葬式は至極わずかで、その代わりに長く深くゆっくりと喪失が描かれる。
この世界には両思いの別れなんてないのかもしれない。そう思わせられる。

「言葉にしたら、言葉が気持ちを上書きしちゃう気がしてさ」

亡くなった母を思い、とわ子はそう言った。
言葉にしない、言葉にならない喪失が、この物語の中には漂っている。
一話の回想でとわ子は母親のお骨をリュックに入れて就任式に出席する。六話では親友が亡くなったその日に彼女のキッチンでご飯を作り、彼女がいたその席で一人ご飯を食べる。
日常と別れを同時に描く。それはすごく悲しいけれどリアルで大切で、すとんと腑に落ちてしまうのだ。

別れと日常

別れは日常に組み込まれていく。
七話で描かれたのは、とわ子がかごめを失ってから一年後だった。
描かれるのは、日常。上手く食べられないフルーツサンドや会社でのトラブルや、娘の自立やいつものような元夫たちからの干渉。かごめのことは忘れ去られてしまったのかと、一瞬そう錯覚してしまうまでに日常だった。しかし、それは全く違った。むしろ逆だった。かごめという大切な人の喪失は、とわ子の日常のとても深いところにあった。
例えば、仕事で辛い時。彼女にそれでも前を向かせていたのは、かごめとの約束だった。
例えば、人と話す時。とわ子が常に人の体調を気にするようになったのは、知ってしまった突然の「別れ」を恐れたものだった。
いなくなった人の言葉は、何よりも強い。いなくなった人を思う気持ちだって、きっと消えない。
例えば、いなくなった人を一瞬でも忘れていたことに気づく時。自分を責めるその痛みの中に、私たちはいなくなった人を見つける。


七話で、とわ子は親友を喪った後のことを、初めて人と話し合う。彼女が出会った社長・小鳥遊は言った。

「時間って別に過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか…その、別のところにあるもんだと思うんです。人間は、現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、20歳、30、40。その時その時を人は懸命に生きてて、それは別に『過ぎ去ってしまったもの』なんかじゃなくて。」

理屈を超えた何かが、そこにはあった。「前に進む」ではなく「共に進む」。いなくなった人を過去にできない。そんな残された人を、丸ごと肯定してくれる言葉だった。

「人生って、小説や映画じゃないもん。幸せな結末も、悲しい結末も、やり残したこともない。あるのは、その人がどういう人だったかっていうことだけです。」

何も無い中に何かを見出すフィクションの中でこう言い切るのは、面白いながらすごくリアルだと思う。人がいなくなった後に残るのは、周りの人から見た虚像だけだ。その人がその結末や歩んできた道をどう思うかを勝手に周りが想像するのは、あまりに高慢なのだ。

「かごめさんって、どういう人だったんですか?」

彼はその後彼女にこう問いかける。
そしてとわ子は答える。

「すごく、面白い子です」

面白い子でした、ではなかった。過去形で語られなかったかごめは、今のとわ子にとって、過去にはできなければするつもりもないのだろう。

終わりに

坂元裕二さんの描く「別れ」は素敵だと思う。
彼の描く「喪失」は葬式で泣くことではなく、些細なことで、いなくなった人を思い出すことだった。「別れ」とは、いなくなった日常を受け入れることだった。いなくなった人と共に生きていくことだった。

「パーティーの後片付けは大変な方がいいよ。朝起きて何も変わらない風景だったら淋しいでしょ。次の朝、意味なく並べられたワインのコルク、テーブルに残ったグラスの跡。みんな楽しかった思い出でしょ。どれも君が愛に囲まれて生きてる証拠なんだよ」

誰かがいなくなった後、何かが終わった後。
残された人たちを取り巻く思い出は「愛に囲まれて生きている証拠」である、と。その表現にどこか救われたような心地がした。
残されたひとと、いなくなった人。そして残り続ける思い出。その全てを優しく肯定するような言葉なのだ。
残された人たちは残されたものを少しずつ、ゆっくりと後片付けをしながら、何かを受け入れていく。

「別れたけどさ、今でも一緒に生きてるとは思ってるよ」

そしてもうひとつ。私はこの台詞こそ、この物語を何より表現しているものだと思っている。私たちはいつだって、いつか訪れた別れとともに生きているのだから。

そして最後に、この物語がいちばん伝えたかったであろう言葉。

「人生には、二つルールがある。亡くなった人を不幸だと思ってはならない。生きている人は、幸せを目指さなければならない。人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる」

小鳥遊のこの台詞は、この物語の中で何よりの存在感を放つ。残された人をそっと包み込むような二つのルールと、そして優しく背中を押すような最後の言葉。苦しいまでの喪失にそっと寄り添うこの言葉に、どれほどの人が救われることだろう。
私たちは、いつか訪れる別れとともに生きていかなくてはならない。
そんな「別れ」に寄り添うこの作品が、別れた者の背中を押してくれるこの作品が、私はたまらなく好きだ。

#大豆田とわ子と三人の元夫 #テレビドラマ感想文 #坂元裕二

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