言いたいこと言うの?
「言いたいことは直接言わないと」
だそうです。
今日は「言いたいことを言う」から繋がる、自分の価値観との向き合い方。
まぁ言いたいこと言ってないよね
自分が子供の頃、両親、親戚、友達、近所の人、ほとんど皆、建前で日常を送ってた。
言い換えれば、他人がいる前では平静を装って我慢し、内輪になったときにだけ毒を吐く、息を抜く。
少し目立ちたがり屋だった僕は、ちょっとだけとんがった行動をしたり、頭の良い行動をしたりして、注目を集めるのが得意だったけど、
「恥ずかしくないの?」とか
「目立ったらめんどくさくない?」とか
やんわり遠回しにまわりから静止されてた気がするけど、子供の頃は自分が一番だもの気にしない。
彼らは、誰が決めたでもない、明言された訳でもない、なんとなくの社会の常識とやらに従っていたんだなぁ、とは当時の僕はもちろん知らない。
僕にもそれが当たり前になったのは、中高の寮生活の影響が大きい。
そんなこと考えてたので、日本特有の空気を読むのが得意になってしまった。
学校は尖ってる奴らの集まりだったから、平均的に尖ってるくらいになったんだとは思う。
そして大学に入って、僕は特別だと思っていた能力なり個性なりが埋もれるくらい上位互換の人間がいることに気付いた。
もう尖っていられる時期は終わったんだ
…誰だそんなこと言ったやつ。
…悲しいことに、自分なのだ。
規格外の妻
大学院の頃に今の妻と出会ったとき、
格好良く思われたいからなのか、
負けたくないと思ったからなのか、
僕はバリバリ人生楽しんでるよ感を出してた。
まぁ外から見た行動はどう見てもアクティブ大学院生だったから光の部分として間違っちゃいないが、
上位互換と比べて納得したものを出せていない自分に凹んでたであろう影の部分を見つめられていないのに。
その頃の彼女は光の部分に対抗する輝きで突き進んでくる人だった。
まぁ驚異的である。影の部分が無いように見える。
紆余曲折を経て僕の影響もあって影の部分も多少手に入れたであろう彼女は、相変わらず特別素晴らしく突き抜けている。
皮肉でもなんでもない。
自分の気持ちを全面に出す。
社会の常識と違ってもまずは主張する。
社会の常識が押し付けられても傷つきながらも貫いてく。
その最中は「なんでこうなるの、おかしいだろ」とか喚きながら泣きながらふさぎ続ける。
この期間だけは、隣りにいる僕にはいい迷惑である。
落ち着いたら「やっぱりこれで良かった」と言う。
目がキラキラしているのを見ると、羨ましいなと思えちゃう。
なんとなく社会の常識とやらに従って波風立てずに緩やかに死んでいくのと、
自分の考えに従って杭を打たれ、傷つきながらも活き活きと生きていくのと、
どちらがいいのか正直わからない。
常識のそれっぽい正しさに揺らいで自分の考えを自分で否定して死んでいくよりは、
自分の考えを外に出して実現する(少なくとも言った事実だけは残す)。
なんで彼女は傷付くのをおそれないのだろう。
肌に降ろせる想像力があるか
彼女は衝突を恐れない。
なんなら僕が「衝突」と捉えてる時点で間違ってるとさえ伝えてくる。
主張をぶつけるなんて言わない。
主張は自分の心を見せる優しさの現れだ。
いつからだろう、相手の主張は自分への対立要素になると思ったのは。
相手の主張があるとそれに我慢して従わないといけないと思ってる自分がいるからだ。
まるで親に叱られた子供のように。
彼女は、お店に商品を並べるが如く、言葉を並べていく。
その言葉を見て、言葉を足して、その商品の世界観を広げることに喜びを感じているようだ。
言葉を額面通り掠め取って、言葉にしか現れてない世界の中で収まることに悲しみを覚えるようだ。
僕は彼女の商品を僻んでたのだ。
僕は自分の店に商品を出さない。
商品がないのに店に世界観がないと嘆く。
なんて当たり前で滑稽なのか。
さて、お店には時折、招かざる客が来る。
それが彼女にとってはひょっとしたら鬱屈とした夫だったりする。
彼女は夫だから僕に向き合ってくれるが、普通の人だったら店から追い出して終了なのだ。
付き合ってたときに見えていた光が少なくなり、影の部分が多く見えてきた私に、
「言いたいこと言ってないで頭で完結させてるから鬱々としてくるのよ」
とドヤ顔で言ってくる。
正直見下されてる感じがしてプライドチョモランマの私には堪える。
言いたいことを言うということは、
言いたいことを自分でわかっているということ。
自分の価値観で見えた世界を表現すること。
普段から言葉にしていないと、表現された世界の解像度は格段に低くなる。
いいね、いやだ、うざい、すき
まるでSNSのボタンくらいのボキャブラリである。
自分が体験した世界を、
誰かの使い古しの言葉として定義されたような、
ニュースで流れるような他人事としてしか捉えられていないと、
まぁ見事に「自分の」言いたいことではなくなっている。
自分の、今、この瞬間の捉えた世界を、どれだけ肌に降ろせるレベルに感じられるか。
どれだけ目の前の人や物に価値を感じて接しているか。
…言いたいことを言えるということは(音に出すか否かに関わらず)、自分が今の世界を生きている証明になるのかもしれない。
凡庸を否定したくなったなら
自分は凡庸な奴ではないと思いたい僕。
一番簡単に凡庸でなくなるのは、
自分の価値観で生きること。
環境によって醸成される価値観が他人とダブることはほぼありえない。
どっかは突き抜けている。
必ずどっかは平均より突き抜けている。
そうすれば非凡だ。
「言いたいこと言えば」よりも
「非凡になれるチャンス!天才的な価値観を世に示すチャンス!」
って言われた方がなんか生産的で気持ちいい。
少なくともプライドチョモランマな僕には。
光も影も受け入れる覚悟を、まずは自分で持てば変われる、と思った出来事だった。