夫婦喧嘩の中に眠る宝探し
と言いつつ、
だそうで。
要するに関わってくると余計なことしか起きない…ということで
お前キライと言われているか、
スーパー矛盾していること言われているわけです。
相手にとって出口のない不満しか言わない人には関わらない、放置、というのも良いですが、
自分の糧になる部分があるのなら、その場での言い争いを避けて、人に話したり一人になって落ち着いて言葉を拾っていこうと努力するのもアリかとどこか他人事に思っていました。
だけれども、紙に書き出しつつ、学ぶべきところはなんだろうとかぼやっと考えていても「なんでこんなこと言われなきゃならんのだ!」と怒って自分の深堀りは止まっていました。
実は妻は真っ当なことを言っていると、自分の本心が自分で見えているか?と尋ねられていたんだ、と気付くのは大分後になってからでした。
大事な相手からの言葉が素直とは限らない
前提として、大事な関係性の相手が自分に何か伝えてくれる、というのは、
相手は自分に期待してるわけです。
あるいは、相手は自分との関係性がもっと良くなることを希求しているわけです。
もしくは、相手は自分の上昇傾向を加速したいから自分に手伝って/見守って/自身も加速して欲しいのです。
言った本人の心の奥底に「こうなりたい」「ここが変わると気持ちよく過ごせるのにな」が隠れているわけです。
ただ、相手にとって拾いやすい、連想しやすいトピックが出てきたタイミングでそれらが変換されて発言されるわけです。
例えば、お相手の方の心の奥底では「高め合える関係で、お互い刺激のある暮らしをしたい」と思っていたとしましょう。
そして車に乗っているとしましょう。
運転に集中したい自分は車で黙ったり新しい話題を展開できたりしないわけです。
そしたら相手は言いたくなるわけです、「あなたはつまらない」と。「あなたはなぜ自分から話題を振れないのか」と。
相手が自分より運転が上手だったらなおさらでしょう。「運転が大変だから、疲れてるから仕方ないか」で済まないわけです。
そうなると先に挙げたような不満が先に出たような発言が出てくるわけです。
結論ファーストでわかりやすいとしても、自分にとってインパクトがデカ過ぎる。
なので、この後に少し「運転が大変なのは仕方ないけどさ」等と紡がれてもクッション性はゼロです。
隕石が降ったあとに座布団が敷かれるくらいの感覚です。
じゃあ結論は、毎度僕の立場を考えて、慮ってから(僕の感想を聞いてから)、相手に意見を言うように相手に促せ、という話なのか。
……そんな巷で出回ってるような安直なハウトゥーで終わってはたまりません。
もーっとふかーいココロに潜って話せていますか?という問いを実は与えてくれています。
言葉のインパクト
前の章の冒頭に書いた通り、
「大事な」相手からの言葉です。
心から大事にしたい相手から、自分との関係性を大事にしたいが故に放たれた言葉です。
隕石級の発言を、剛として受けてドンガラガッシャーンと派手に爆発する(キレ散らかす)、では、自分は相手との関係性を大事にしてるのか?という話になります。
大事にしてみましょう。
雨級の発言、霰級の発言、火山弾級の発言、隕石級の発言。
そもそもこれらのグレード、何に比例するかと言われたら、
相手のその言葉にかける熱量 × 受けとめ手の心に響いた度合い
というものかと。
熱量は、静かであっても気迫があったり理路整然だったり大声で激烈であったりすれば高いでしょうし、どうでもいいやくらいの適当さであれば低いでしょう。
心に響いた度合いは、「いい話だ〜!」という感動、あるいは「イヤなことを突かれた」という痛恨の度合いと言えるでしょう。
掛け合わされたもののインパクトで自分が直面している課題で大事なことの度合いがわかるとも言えます。
隕石級のインパクトで自分の中の膿を吹き出させるのはありでしょう。
例えば、隕石級のインパクトがデカいものは、最終的には自分が心の奥底で思っている通りに生きれているかに帰結する話かもしれません。
少なくとも僕にとってはそうでした。
最初の妻からの言葉から……何が見える?
昔々、自分のせいで妻に転勤・休職・転職などをさせるきっかけを作ってしまった僕がいました。
当時の凹んだ妻からは恨みつらみが出るのは仕方のないことでした。自分の力とは関係ないとこで人生が変更された感覚だったでしょうし、遣る瀬無い思いがあったでしょうし。
凹んでしまった妻がいる以上、
僕が頑張るしかない、
僕が夫婦として成り立たせるために仕事も家事も頑張らなきゃいけない、
妻のことは常に気にかけて前向きな言葉をかけなきゃいけない、
……平たく言えば当時の僕は自分に呪いをかけたんです。
上の心構えは社会的には健気な心意気でしょうが、自分の軸は考慮せずに他人ありきの心意気になっています。
夫婦という体裁を守るために、社会的な立場を守るために、心配性・事なかれ主義(波風立たせない主義)を前面に出して「守り」の姿勢に入りました。
妻が復活の兆しを掴めるようにいいところを見つけてほしいと思ってました。
そしたら安易に比較材料として自分を使って「自分はそんなに大したことないでしょ、ところが君は実は素晴らしいんだ」って褒め方、励まし方をしてしまったんですね。
そして、いざ妻が復活し始めたとき、僕が自分にかけてきた言葉の通り、
僕が自分を大したことない人間としてしか思えなくなりました。
妻からかけられる言葉も大したことない奴相応でしたから、事実そうなっていたのでしょう。
ですが、その後も「あの苦い思いは二度とすまい」という恐怖心にも似た決意が心配性・事なかれ主義を継続させたのです。
相手を心配するという、ある意味親心のようの、老婆心のような、一瞬相手を下に見ているような気の回し方をしているせいで、
余計な頭を使い始め、自分への関心がおろそかになり、自分に何も許可しない人間が出来上がってしまったわけです。
近頃なーんかイヤにくすぶっていたのはなんと自分の呪いのせいだとようやっと気づいたわけです。
いわゆる巷の自己肯定感が低まっていたわけです。
自分への思い込み
ここまでくると、自分を自分で認める、というよくある話に落ち着きそうです。
やはりテンションを自分で下げにきている僕の言葉は、質があまりにもよろしくない。
なんなら言葉を生み出す根底の考えがドンヨリしているからこそなんだろう。
例えば、
・お金持ちが疎ましい
→本当は僕もお金持ちになりたいという願望、現実の不足感、現実稼げていないことを認めたいような言い回し
→僕も稼ぎたいな、の純粋な言い回しでいいやん
・(直接あるいは動画で)〇〇が言っていることはイヤだなぁ
→〇〇が言っていることが心に響きすぎて直視したくないんだな、逃げてたいくらいなんだなぁ
→自分には実は必要なことを言ってくれているんだなぁ
・うまく行ってる人を応援したくないなぁ
→自分が満たされてなくて人の満足を納得できない
→僕が僕を満たしてあげたいな
・集中したいのになぁ
→自分にとって気持ちいいことと乖離している、そこまで思考を飛ばせない
→集中して思考のフロー状態に入って気持ちよくなりたいだけなんだよな
……とかさらっと表に出ていることを少しだけ掘り返すように心模様を書くだけでも、ちょっとポジティブになりそうなもんです。
純粋じゃないだけ。
うっすらと体裁を盛り込んだ思考・言葉を発しているので、発しているのを理解した上で、
発した後に「つまりね」「ホントはね」「というのもね」と強制的に言ってみて、自分の純粋な思いに触れるトレーニングをしてみようと思います。
これで上がっていけるかな。
……つまりね、上がっていきたいんですよ。